も日本へもレオナルド・ダ・ヴィンチ、ダンテなどをイタリー文化の華としてたくさんの金をかけ、大規模な展覧会まで組織して紹介されました。ファシズムのイタリーが、どうしてレオナルド・ダ・ヴィンチやダンテなどばかりを担いだのでしょう。ナチス・ドイツが、なぜゲーテばかりをあのように担いだのでしょう。そして、軍閥封建の日本で、どうして「源氏物語」ばかり世界に押出し、紫式部以後の日本の社会で婦人がどんなに生きて来ているか、婦人たちがどんな文化上の仕事をして来ているかということを人間の生活の発展の歴史として紹介しようとしなかったのでしょう。誤った民族主義や民族の自負心というものは、自分の民族の歴史を公平に判断し、その中から親切に民族にとって値打のある様々のものを発見してそれを世界に紹介するという態度をもたせません。いつも、自分の方にはこういうものがある、どうだ、という誇示した形でそれを示します。自分の歴史に科学的な客観的な評価がもてないのです。なるほど、レオナルド・ダ・ヴィンチは、ルネッサンス時代の大天才の一人であり、その綜合的な独創性は冠絶したものです。ダンテにしても、「神曲」は空想とリアリズムの混った独特な作品ですけれども、これらの人々から後、イタリーの民衆は営々として数世紀を生活しつづけて来ております。そして、マルコニーのように人類に貢献した発明家や卓越した何人かの音楽家、作家にしてもボッカチオのように市民社会の擡頭期を代表する立派な作家もありました。イタリー人の歴史の中には、たくさん立派な人が出ております。しかし、ファシズムは、主観的な、独裁の立場から、そういう風に本当の民族の宝を歴史の段階に応じて掘り出して、それを今日に生かすという角度から自分達の民族の歴史を見る能力をもっていませんでした。世界に対して自分だけが号令をかけようとしたばかりか、自分の民族に対しても文化独裁の号令をかけました。それには、誰にも一通り異存のない、民族の誇りという単純な固定した標準を押しつけて来た。こういう点から考えてみると、日本の最近数年間に「源氏物語」が官製翻訳され、文化上の偉い婦人作家といえば紫式部にきまったもののように扱われていたということに、却って、日本の文化がどんなに創造力を失い、圧しつけられ、文化史としての新しい頁を空白《ブランク》にされていたかという、重大な文化上の問題があらわれて
前へ 次へ
全17ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング