らる」と述懐している。
一葉が中島の塾を手つだって貰う月二円のほかに、賃仕事や下駄の蝉表の内職をして生計の助けとしている母の瀧子や邦子は、一葉の文作をたよって、早くものにしようとしないのを一葉の引こみ思案だとせめたてたのだろうけれど、一葉の心とすれば、「衣食のためになすといへども、雨露しのぐ為の業といへど、拙なるもの誰が目に拙しとみゆらん」とかえりみるだけの鑑識はおのずからあった。
生活の必要におされて小説をかく覚悟はしたものの、十九の一葉にはまだ小説をかいてゆく創作上の方向、態度などが一向つかめなかったのも無理ないことであった。「かれ尾花」は、小説というよりは一篇の作文であった。題のない習作の方は、会話などもさし入れての試みであるが、これも小説には未《いまだ》しというものである。
二十四年の四月十一日、萩の舎の人たちが向島へ花見に行った日からつけはじめられて、二十九年七月二十二日、生涯の終る四ヵ月前まで六年間つづいた日記は、一葉にとって初めは小説をかく勉強のつもりだった。「かれ尾花」と同じような流麗ではあるが型にはまった和文脈の文章でかかれている。
萩の舎へ行かないときは、上
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