を深く感じた。そしてそのことはそれでいゝわけなのだろう」と。
ところで、ここに問題なのは、その文学の中に女心を装っている婦人作家たちが、今日男に「かえっていとおしく」思われる効力を自覚しないで、無心に、鏡に向って余念なく化粧する女のようなこころで、女心をその作品のうちに装っているであろうか、ということである。
作中の女を絵中の女としていとおしく思わせる男心の余波を、おのずからその作品を生んだ婦人作家の上にまでひきつけて来るわざを、全く度外において、婦人作家は、おのずから装われた女心のいとおしさにあるのであろうか。
微妙なこの問題の中に、日本の婦人作家は半ば封建と近代文化との奇妙にまじり合った日本の女としての社会的境遇をむき出していると思う。
宇野千代というような作家が、前時代の田村俊子に似たような系統に立ちながら、女心というものを決して「炮烙の刑」のようには表現していない。あのように生々しく、野暮に、女の心の自由を主張してはいない。遙かに世故にたけて、その装いの風情で女としての社会的、文学的存在を守ってゆく方向で出発したことはさきにふれたとおりである。その傾向は、その後文学全体
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