がしきりに論じていた庶民の生活条件改善問題を必然とした、その生活事情をロマンティシズムの背景にもたなければならなくなって来ている。しかも自分がおかれている庶民的な事情を歴史的に把握する力をもたないために、歌集『天地玄黄』のような時流に流されかたも示している鉄幹のロマンティシズムの分裂は、樗牛の晩年のニイチェ礼讚とともに、極めて意味ふかく明治の知識人の精神の動揺の一つの姿を見せているのである。
 創作の原則で新詩社と常に対立していた正岡子規は「真摯質樸一点の俗気を帯びざる」芸術境を目ざすことで、国木田独歩は、少くとも「嘘を書かぬこと」という創作に対する「唯一つ」の意思をもっていて、その点では各々主観的な我を確保した。
 鉄幹は、自身のロマンティシズムについて、真実追求に関するそういう問いかけを試みてもいないし、煩わされてもいなかった。偽はまことか、まことはうそかと、誇張をも顧慮せず燃え立つなりに自我を燃え立たそうと意欲し、その主情的な主張において、分裂矛盾のままに自身のロマンティシズムを立てていたのだと考えられる。
 この自然発生的で又現世的匂いのきつい鉄幹のロマンティシズムが、泉州堺の菓子屋の娘であった鳳晶子の才能に働きかけ、それをひきつけ、目ざまして行った過程は、鉄幹、晶子の夥しい作歌のうちに色彩濃く描きつくされているのである。
 鉄幹は京都の生れだが、晶子は堺の町の沒落しかけている羊羹屋に、三人めの娘として明治十一年十二月、歓迎されない誕生をした。父親が娘を可愛がる通例とちがって、晶子は父から邪魔もののようにうとんぜられ、勝気な母は弟や妹の世話を彼女にまかせ、家のために青春をとざされ過した。堺の町にたった二冊だけ入る『文学界』のうちその一冊はこのとざされた生活の晶子が購読者であった。やがて『明星』が一冊六銭、当時のタバコのピンヘット一箱の代で発行されたとき、晶子はこの新詩社の運動に激しくひかれて、上京した。明治三十四年といえば晶子は二十三歳の年で、その秋に鉄幹と恋愛を通して結婚した。
『みだれ髪』はその年に出版された。
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夜の帳にささめき尽きし星の今を
      下界の人の鬢のほつれよ

歌にきけな誰れ野の花に紅き否む
      おもむきあるかな春罪もつ子

髪五尺ときなば水にやはらかき
      少女《をとめ》ごころは秘めて放たじ
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「早熟の少女が早口にものいふ如き歌風であるけれども」と後年斎藤茂吉が評しているこのリズムが、当時にあって、どれほど新鮮な感動を与えたか。おそらく今日想像の及ばないほどつよく烈しく芳しい新風であったのだろう。
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やは肌のあつき血潮にふれも見で
      さびしからずや道を説く君

恋を知らでわれ美を神にもとめにき
      君に今日みる天の美地の美
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 ここにはただ女の恋のよろこびの歌のひとふしがあるばかりでなく、『文学界』のロマンティシズムがもたなかった肉体の愛の表現の肯定が、活々と脈うっていることに注目をひかれる。
 封建の風をつたえて、紅葉などでも作家が自分の恋愛の問題を文学に扱うのを、人の前に恥をさらすと云っていたような時代。そして、吉原での痴戯は憚らず描かれているが、恋とはとりも直さず痴情としてみられていた時代、『文学界』の若きロマンティストたちは泰西の愛についての考えかたを主張し、封建風な低い痴れごとの観念に対抗して、男女の間にあり得るダンテ的な愛の境地を強調した。肉体をはなれた心と心との美しい愛を求め描いたのであった。
 殆どあらゆる作品に、何かの形で破恋を描いた一葉も、恋愛そのものについては不確定な態度で、心の奥ではやはり昔ながらに恋はこわい執着、さけがたい人間の迷いという考えかたをかなりつよくもっていたらしい。一葉としてはそういう心の角度から、周囲の『文学界』の人たちが、すぐ世間並の恋のいきさつに入らない接触を保っていてくれるのが或るたのしさであったように思われる。この点でも、一葉とロマンティストたちの交渉はなかなか面白くて、云わば一葉のむかし気質と『文学界』の新しからんとする意図とが、それぞれ反対のところから出て来ながら或るところで一つにとけ合った形なのであった。
『みだれ髪』の巻頭の三つの歌をみても感じられるとおり、晶子は、一葉より六つ年が下であるというちがいばかりでない天性の情熱の相異と、芸術とともに燃え立つ恋愛から結婚への具体的な飛躍を経て、人間の美として精神に添う肉体の輝きを肯定したのは、日本におけるロマンティシズムの一推進として甚だ興味がある。
 山田美妙が小説「胡蝶」の插画に裸体の美女をのせたことで囂々たる論議をまきおこしたときから十年余を経た日清戦争後には、日
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