となって、一葉は悟りに入ったように解釈されて来ているのだが、一葉が、再び文学のことに携る決心をかためるに到った心の足どりの複雑さは、天稟うけ得た一種の福があると久佐賀に暗示されただけが動機ではなかったろう。
 天啓顕真術へ行って来た翌々日、女学雑誌で、三宅龍子、鳥尾ひろ子がならんで歌塾をひらくという記事をよんで「万感むねにせまりて、今宵はねぶること難し」とあるが、その万感は、ただくやしいばかりのものではなかったろう。考えがめぐってめぐって火のもえるようであったのだろうと思う。
 その燃える焔が、日記のなかで有名になっている花圃への罵倒となって迸り、同門の田中という女に、同じけがれとしても万人のすてた此人にせめては歌道にすすむはげましだけはと気負って表現されたりしているのだと思える。
 頭の中を火がかけまわるようなその状態が次第に沈静して来たとき一葉はこう考えるようになって来た。「こゝろは天地の誠を抱きて、身は一代の狂人になりも終らば、人に益なくうきよに功なく、清濁いづれをまされりとせんや。」「されば人世に事を行はんもの、かぎりなき空《くう》をつゝんで限りある実《じつ》をつとめざるべからず。」「一人の敵とさしちがへたらんは一軍にいか計《ばかり》のこうかはあらん。一を以て十にあたる事はいまだし。万人の敵にあたるはかの孫呉の兵法にあらずや。奇正此内にあり、変化運用の妙天地をつゝんでしかも天地ののりをはなれず、これをしるものは偉大の人傑となり、これをうしなふものは名もなき狂者となる」
 誰の目にも明らかなこの常識論が、特に一葉の場合関心をひくのは、お近によって、もっとむき出しに云われていた同じ常識論に対して作者は与之助をずるずる敗けさせたまま「花ごもり」を終った、そのつづきを、今は、自身にうけいれているからである。しかも、一葉は、そういう常識に結局はおさまる我が心というものに対して、ちっとも観察批判を働かせていない。芸術家の生きてゆく問題の本質は、そういう常識を孫呉の兵法云々で表白することにはなくて、そう表現して自分に肯定させてゆこうとしている我が心の、もう一皮奥の心の在りようとでも云うべきものへの追究にこそ、かかっている筈ではなかろうか。
 年齢の若さではない一葉の本質の或る一つのものがここに潜んでいる。この本質的なものと、時代の慷慨的なものとが微妙に結びついて、その年の三月には、「いでやあれしは敷島のうた斗《ばかり》か」という心持にまとまって行っている。「労するといへどもむくひを望まねば、前後せばまらず、左右ひろかるべし、いでさらば、分厘《ふんりん》のあらそひに此一身をつながるゝべからず。」「このあきなひのみせをとぢんとす。」
 一葉の文体はこの頃から少しずつ変化して来ている。定型をふんで来た和文脈の文章はその人のリズムのあらわれたものになりかかっているのも興味ふかい。
 一葉の「もとの心はしるやしらずや」樋口の三人は三様の心で、大音寺前の長屋から、本郷丸山福山町の、ささやかな池の上に建った家賃三円の家へ引きうつった。一葉は「花ごもり」を心理のかくれた土台石として、
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   おもひたつことあり、うたふらく
すきかへす人こそなけれ敷島の
      うたのあらす田《だ》あれにあれしを
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という心持から。邦子はもう零細な商いにあきた気持から。そして母の瀧子は、小さくとも門構えの家に住んでやわらかい着物でも重ねたいという願いから。引越しのあったのは二十七年五月一日のことであった。
 これよりいよいよ小説のことひろく成してんのこころ構えから、この人の手あらば一しほしかるべしと母娘の相談で、うちたえていた半井桃水の許をも訪ねた。
 中島歌子から、萩の舎号をゆずって死後のことを頼むべき人は門下の中にあなたしかないからという話があった。それも一葉としては「思ひまうけたる事」であり、もう先のように萩の舎の空気や師匠歌子のとかく噂ある生活ぶりへの潔癖をすてて、自分としても歌道のためにつくしたい心願だから、「此道にすゝむべき順序を得させ給はらばうれし」と月々報酬をもらって手伝いに通うことにきめた。「変化運用の妙」に立ち「一道を持て世にたゝんとする」生活の第一歩がこのようにして始められたのである。
 金銭上の不自由はやっぱりつきまといながらもこの時代から、一葉の生活は方針のたった日々の落着きが、日記をみてもまざまざとあらわれて来ている。桃水に対して経た感情の幾風波も、おさえれば却ってたぎるようなものだろう、悟道を共々にして兄の如く妹の如く、世人の見もしらざる潔白清浄なる行いして一生を送らばやという境地に達した。
 この年『文学界』に連載された「やみ夜」は、おそろしき涙の後の女心の、凄艷な恨にかたまったお蘭と
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