鶯
一八八六―一八九六(明治初期一)
「藪の鶯」という小説が、明治になってからはじめて婦人の作家によって書かれた小説らしい小説であるということを、つい先達てになって知った。今の三宅花圃が田辺龍子嬢として明治二十一年に二十一歳のとき、書かれたものである。
花圃の「思い出の人々」という昔がたりの中で、この作品が出来た前後の事情が話されている。「私が風邪かなにかを病んで、女学校を休んでいたときでございましたが、なくなりました兄の一周忌が近づいて来るのに、その法事をするお金がないと母がこぼしているのを聞きました、ふと思いつきましたのが、小説をかいて法事の費用をつくろうということでございました。」
父の田辺太一という人は元老院議員という当時の顕官で、屋敷のなかに田圃まである家を下谷池の端に構えていた。青い着物を着た仲間《ちゅうげん》や馬丁というものが邸内の長屋に家族づれで住み込んでいるという大がかりな生活ぶりであったそうだが、その父という人の気質には旧幕臣としての鬱憤が激しくもえていて、「金の出て行くうしろ姿がよい」などと申し、お金を湯水のように使ってよろこんでいたのでございますという事情だったから、そのお屋敷の内実は法事の費用にも窮するという有様だったのであろう。才八という「家来《けらい》」と母とが、法事らしいことも出来ないと泣いているのを、風邪でねている若い龍子はしみじみと聴いていた。
すると、その才八という「一寸|文《ぶん》のわかる男」が、風邪でふせっている令嬢の気ばらしに、「当時評判の坪内逍遙さんのお書きになった『当世書生気質』という小説本をもって来てくれました。私は、その小説をよんで居りますうちに、これなら書ける、と思いまして一いきに書きあげましたのが『藪の鶯』でございました。」
こうして出来た小説は、そのころ、春廼屋朧といった逍遙の序文、中島歌子の序文、作者の序文をつけて金港堂から出版された。原稿料三十三円二十銭という金は、二十五円の月給が立派に通用していた当時にあっては、大金であったろう。この金で、田辺家は亡兄の一周忌をすませ、田辺龍子という名は、その時代の若い婦人たちの目を見はらせ、若い婦人たちの間に女流作家志望の熱をまき起す刺戟となったのであった。
逍遙の「当世書生気質」という作品は、周知のとおり明治十八年に出た新しい文学への手びき「小説神髄」につづいて、書かれた小説であった。この一篇には、逍遙がそれを書いた当時の社会の歴史的な矛盾や、作家として個人的な持ちものの特色などが、複雑に絡みあってあらわれている。先駆的な価値は十分評価されるべきものだが、作品全体から云えば寧ろ、逍遙が理論においてはそこから脱しようとしていた戯作者風の調子のつよくしみ出たものである。その調子は今日の読者に生活感情として馴染《なじ》みにくいものでもある。この「当世書生気質」の出た二年後の明治二十年に、二十四歳であった二葉亭四迷によって「浮雲」が書かれたとき、その頃の習慣で、はじめの部分を発表するときには自分の名をかして、二葉亭四迷と春廼屋朧共著という体裁にした。しかし、二葉亭の作品を見て聰明な逍遙は小説家としての自身の資質に深い反省をもった。イギリス文学から、現実主義の文学を主張した逍遙とは異って、ロシア文学の深い教養と、そういう文学に入ってゆくにふさわしい真摯な性格とをもつ二葉亭は、「浮雲」によって、逍遙にこれまでの自身を深思させる人生と文学への態度を示したのであった。将来の小説と小説家の生きる態度について、遠く見とおすだけの真面目さをもっていた逍遙は、文学者又処世人として最も現実的な良識をはたらかせ、以来次第に小説の筆を断った。そして、日本における新劇運動とシェイクスピアの翻訳とに自己の歴史を完成させた。
明治初年の思いきった欧化教育をうけ、男女交際を行い、馬車にのって夜会にも行く明治大官の二十ばかりの令嬢が「当世書生気質」をよんで「これなら書ける」と思ったというのは、今日の目から見れば、なかなか面白いところだと思う。その明治二十年こそ「浮雲」が与えた衝撃によって新しい文学への思いがゆすぶられていた時であったが、花圃の生活環境は「当世書生気質」を先ず彼女に近づけたということも意味ふかいし、更に、当時の新教育をうけた一人の若い婦人の心持として、その作品の世界に大した反感も感ぜず疑いをも挾まず、誘い出されて小説を書いたというのも、婦人の生活と文学の成長の歴史と関係して、何かみのがせないものを感じさせる。
会話中心に、短く一回一回局面を変化させ、雅俗折衷の文章で話の筋を運んでゆく趣向にしろ、その局面のとり合せにしろ、「藪の鶯」は「当世書生気質」の跡をふんで行っている。独創があるということは困難である。作中人物の心
前へ
次へ
全93ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング