立って第三部まで執筆したことも見落せない。ゾラに「巴里」がある。震災で古い東京はなくなった。その思い出のためというばかりが、小剣のモティーヴではなかった。社会の渦の中心としての都市「東京」が描きたかったのであろう。しかしこの大長篇が、完成されなかったということも同時に記憶されることである。広津和郎がこの頃盛に書いていた連載ものの一つに「女給」というのがあった。プロレタリア文学理論に対しては懐疑的な一面をすてないこの作者も、「女給」は、ただ享楽の対象としてではなく女が働いて生きてゆく形として、三上於菟吉その他の大衆文学とは異った面から描こうとした。「田園の憂鬱」「都会の憂鬱」の作者佐藤春夫が執筆していた「心驕れる女」という通俗作品に登場する人物にさえ時代の空気は流れ入っていた。通俗小説さえその現代性を粉飾する要素として、左翼的[#「左翼的」に傍点]な若い男女の行動や心理を、歪め、誤解し、逆宣伝しつつその中にとり入れていたのであった。
 両性問題がこの時代のように社会関係と道徳の建て直しの意味で広汎に論議され、広汎な現実で試みられた時期は、おそらく明治開化期以来なかっただろうと思う。
 第一次大戦後の経済恐慌によって未曾有な失業の問題が社会の前面に立った一九一九年以後、男女の失業、生活難による婦人の貞操問題がやかましく云われて、当時創刊された『婦人の国』などは「貞操十字軍の高唱」を標語としたほどであった。同時に、生活難に対する政策の一つとして、産児制限が常識のうちに当然のものとして地位を占めるようになったし、女にばかり向けられて来た「貞操」というものに、科学的研究が向けられるようになった。『青鞜』の時代、人格の問題としてだけ扱われた両性問題は、山川菊栄の訳した「結婚難・離婚流行の社会的研究」を『女性改造』が特輯したり、ベーベルの「婦人論」、エンゲルスの「家族、私有財産、国家の起源」などを背景として、婦人の社会的境遇と両性関係は、全く社会科学の光りに照らされはじめたのであった。山本宣治の生物学を基礎とした性科学論。法学博士浮田和民が生物学的立場から両性問題を進歩的に見ようとした「新道徳の中心問題と婦人の解放」。評論家厨川白村は、「近代文学十講」を書いた平明流達な筆致で、エレン・ケイの思想から一層社会性を稀薄にしたロマンティックな恋愛論を発表し、三宅やす子が、日本の習俗として、女に辛い未亡人の立場を反駁した「未亡人論」など、ひろく流布した。
 当時三宅やす子の平明な人柄や常識性が、一般家庭の婦人の前進性の一番近い啓蒙となったことは肯ける。しかし、「未亡人論」によって因習とたたかって立った三宅やす子は、その後十余年のジャーナリスティックな活動とその成功のうちに、いつしか、彼女自身のうちに根づよくあった旧套に足をうばわれた。自身の生活にある両性関係の現実においても、窮極は、独立している女の自由というものの解釈において、田村俊子の後期の作品に表白されたと同じ卑俗に堕した。「一本立で、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方がどんなに理想だかしれやしません。」婦人の幸福というものがそこにあり、その形でよいものならば、抑々三宅やす子は、何のために「家庭は家庭」として妾をもつ男の性的放縦とそれを許している社会の習慣に抗議したのであったろう。「偉い男がお雛妓《しゃく》を可愛がる。そのように女が男を可愛がって何故わるいのだろう」そう云って、素性もいかがわしい若い男をひきつけて暮すのが婦人の自由の確立であったのなら、逆の隷属物としての女を、未亡人の立場で非人間に封鎖して来たえらい[#「えらい」に傍点]男の自由を、何の根拠で咎めるのであろう。女としてすこし明るい常識に立つ発言でジャーナリズムにおける常識の指導者となり、その成功の果は、菊池寛が陥ったと全く同じな社会悪に対する感覚欠如に陥った三宅やす子の生涯の後半は、無限の教訓にみちている。
 時代の内容は複雑であった。両性問題についてもはっきり、階級の姿が見られた。失業と生活困難とを根底において、ルンペン的になった小市民層の男女の感情は、当時の急進的な見解が小市民層というものを規定した簡単な否定的な評価に反撥して我から虚無的になり、旧い道徳の規準は破れたが、未だ新しい道徳は確立されていない性問題に虚無性を結びつけて実践して行った。失業と生活難をよそに有産有閑の男女には戦後の経済変調によって失われてゆく従来の家庭の安定性の崩壊があり、不良良人のためには、慣れっこになった芸者ではないステッキ・ガールと呼ばれた若い街の女たちがあらわれた。不良マダムという名のもとによばれた不幸な妻たちの周囲には、彼女たちの空虚にくい下る各種各様のとりまき男が出現した。
 これらに対して、昔ながらの勤労と家庭の負担に
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