されやすい情熱である。だが、何故この作者が、勤労者の日常生活として見たものは「悲しき愛情」の石上の心理と、その妻小枝の生きかたでなければならなかったのだろう。嘗て「投げすてよ!」で侮蔑をもって語られた男の態度と同じように動く石上の心理と、自分を食わせてくれる男と一つ家に棲むからには、それなりいつか夫婦になることをあやしめない小枝という女を、特に何故働くものの日常生活や感情典型としてこの作家はとりあげなければならなかったのだろうか。
英雄的に動く男女ばかりが、一般の働くものの心持の全部を代表するものでないと主張しようとするならば、小枝のような女の生きかたも、又それなりでは決して働くものの生活の現実の心持を語っている典型とも言いきれまいと思う。この作品を社会と文学との歴史の中において読みかえすと、作者の意図は、勤労する者の感情をどこまでもリアリスティックに描き出したいという単一な愛から出発しているより、寧ろ、プロレタリア文学の一方で或る理想化が行われているのに対して、これが現実だ、と反対の一つのものを自分の作品によって強烈なスポット・ライトの下に提示しようとしたところにあるように理解される。そして、その作者の意図が余り強烈であるために、テーマは遂に他の極端まで押されて、社会の現実としても文学としても歴史の又別の消極面へすべり込んでしまったものと見られる。現実の簡単な理想化に反対する作家としての抵抗は、その抵抗において現実を別な歪めかたに誇張する危険に陥らなかったとき、より客観的な真実に近づいたときだけ、初めてその試みの価値を発揮するのである。
プロレタリア文学とその作家とが、新しい歴史の本質に立つということの根本には、当時もいまも、そしてこれからも、作者がよりひろいより客観的な現実の明暗を複雑多様にその作品に描き出す能力の確保の課題がある。ブルジョア文学が従来のせまい主観と個性との枠ではもうすくい切れなくなった社会現象を、プロレタリア文学は、より社会性の拡大された個性を通じ、より豊富な客観にうらづけられた、より潤沢な実感によって描く筈である。
従ってプロレタリア文学には、旧い文学の世界にあるような才能だけの競争はあり得ず、一つ一つの作が、どれだけより真実に、芸術として現実を描き出しているかということについての差別と、比較と、よりよい達成への努力があり得るだけなのである。
作家平林たい子の一つの特色は「施療室にて」一巻を貫き、そして現在につづいている根づよい自他に対する抗議の資質である。そして「出札口」その他の作品に店の宝石や釣銭やのちょろまかしという行為で表現された勤労者の現代社会への抗議の様式が、時をへだててちがった形で作品の中に反復されることに読者は無関心であり得ないと思う。なぜなら、勤労階級の抗議は、そういう盗み、ちょろまかしなどによってあらわされるものでないことを人々は歴史によって学んでいるのであるから。
八、合わせ鏡
一九二六―一九三三(昭和初頭)
「ひろ子はいつものように弟の寝ている蒲団の裾をまくりあげた隙間で、朝飯をたべた。あお黒い小さな顔がまだ眠そうに腫れていた。台所では祖母がお釜を前に、明りにすかすようにして弁当をつめていた。明けがたの寒さが手を動かしても身体中にしみた。」
「ひろ子は眉の間を吊りあげてやけに御飯をふう/\吹いていたが、やがて一膳終るとそゝくさと立ち上った。」そして、火鉢の引出しから電車賃を出した。小さいひろ子は、あつい御飯をいそいでたべられないのに、会社の門限はきっちり七時で、二分おくれても、赤煉瓦の工場の入口からしめ出された。ひろ子の「電車賃は家内中かき集めた銅貨だった」けれど。そして「遅れた彼女はその日一日を嫌応なしに休ませられた。彼女たちの僅な日給では遅刻の分をひくのが面倒だったから。」
「まだ電燈のついている電車は、印袢纏や菜葉服で一杯だった。皆寒さに抗うように赤い顔をしていた。味噌汁をかきこみざま飛んで来るので、電車の薄暗い電燈の下には彼等の台所の匂いさえするようであった。
ひろ子は大人の足の間から割り込んだ。彼女も同じ労働者であった。か弱い小さな労働者、馬にくわれる一本の草のような」ひろ子の小ささに目をつけて言葉をかける労働者は「親しげな顔付をした。その車内では周囲の痛ましげな眼が一斉に彼女の姿にそゝがれはしなかった。彼等にとってはそれが自分たち自身のことであり、彼女の姿は彼等の子供達の姿であったから。」
ひろ子たちの工場での仕事室は川に面した、終日陽の当らない、暗い室であった。「窓からは空樽をつんだ舟やごみ舟など始終のろ/\と動いているどぶ臭い川をへだてゝ、向岸の家のごた/\した裏側が見えていた。」そこに立ててある「広告板には一日中陽が
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