、その新居へうつされなければならないことになった。そして一年が経過した。
 翌大正四年一月『青鞜』の巻頭に、「青鞜を野枝さんにお譲りするについて」というらいてうの言葉が現れて、人々に或る衝撃に似た感じを与えた。らいてうは、『青鞜』刊行のための経済的なよりどころを、新生活の開始とともに失ったのであった。「親の保護を離れた私には今日の食べ物を得る金があったりなかったりする位でした」そういう経済上の逼迫につれて、らいてうが、自分たちの家庭というものを考えている。その考えかたは、一つの社会的挑戦の意味をもつ雑誌発行の事務をつかさどるところとしては、全く調和しがたい本質に築かれていることも明瞭となった。「自分がじっと静かに物を考えたり、祈ったり、書いたり、恋愛したり、休息したりする『自分の住家』というものは、いつも出来るだけ外からのものに邪魔されることのないように、いつも静かに、安全に保ちたいというのが私の日頃からの願でしたから。」
 結婚の習俗に抗しつつ、らいてうと博史との家庭についての感情が、全くあり来りの、おとなしい、けれども我知らず排他的になっている小市民の家庭感情から一歩も歩み出ていないことは、家庭と仕事との摩擦を、耐え難いものと感じさせるに到ったと見られる。家庭と仕事とのやりくり、そのやりくりのために、今は赤裸々な皮膚にふれて来る実生活との摩擦で疲労困憊したらいてうは、その苦痛と敗北と自身の生活態度の本質に客観的に考え究める可能を見出さず「こういう散文的な生活が只私を疲らせ、私の中の高貴なものの総てを汚し、私から光と力とを奪い去るものだ」としかみられなかった。苦痛の経験から、彼女は体験的な現実への生活力を蓄えず、又それによって思想の実質を更新させることもせずに退嬰して、「心霊上の自由」へ引こんだ。
「独立するについて両親に」という宣言の中で、「私が若い燕だの弟だのと呼んで居りましたHという私よりは五つも年下のあの若い画をかく男」と、やや下目に語られている一箇の男性が、「私は太陽である」と叫んだらいてうに、男として及ぼした作用の現実は、社会的な過去の力をもこめて決して単純なものでなかったことがわかる。それが単に個人の問題以上に深刻な性質をもっていることは、らいてうが、やがて母となるという自然な出来ごとに当ってさえ当時の卑俗な揶揄的な偏見と全面に闘わなければならなかったにもかかわらず、そのような荒い路を経て女としての意識をさまされつつ生きなければならなかったにもかかわらず、彼女の活動と、所謂「天才の発現」とは、さまで広くない妻の限界に止まって、今日に及んでいることで考えられる。
『青鞜』をひきついだ伊藤野枝が、年齢の上でらいてうより若かったというばかりでなく、全体としての生活態度の上で、らいてうと対蹠していたことは、まことに意味ふかく考えられる。伊藤野枝が『青鞜』を引受けた心持には、同棲者であった辻潤の協力が計算されていたこともあったろう。しかし、彼女は、その時分もう子供をもっていた。若い母となった野枝が、日常経済的な困難や絶間ない妻、母としての雑用に追われながら、その間却って女、妻、母としての生活上の自覚をつよめられて行って、「社会的運動の中に自分がとび込んでも別に矛盾も苦痛もなさそうに思われました」という心持に立ったことは、今日の私たちの関心をひかずにいない点であると思う。らいてうと野枝との間のこういう相異は、唯二人の婦人の性格の相違だけのことであろうか。もとより個性的なものが大きく作用しているのではあるけれども、その個性のちがいそのもののうちに、既に新しい世代への水源が仄めき現れている感じがする。『青鞜』は従来の社員組織をやめた。「無規則、無方針、無主張、無主義」なものとして総ての婦人のために開放した。事実、テムポが速い五年の間に、発刊当時集っていた婦人たちは、其々成長し、それぞれの道を独自に歩みはじめつつあった。明治四十年に処女作「縁《えにし》」を漱石の紹介で『ホトトギス』に発表した野上彌生子は、進歩的であるが温和でややアカデミックな環境の中でホトトギス派の水彩画めいた文学の境地から次第に新現実派と呼ばれた傾向の作風に進み、文章も欧文脈をうけて、知識人らしいポーズのうちに或る溌剌さをもって自身のスタイルを定め、『中央公論』『新潮』に作品を発表して、田村俊子とは対照的な取材、人生への態度をもつ婦人作家として重きを加えていた。田村俊子の女及び作家としての生活は、既に『青鞜』から遠くはなれてひろく流れつつある。唯一のロシア文学専門家としてチェホフの翻訳で『青鞜』を豊かにしていた瀬沼夏葉は、この年春亡くなった。
 画家上野山清貢の夫人であった素木しづ子が、病弱であった肉体と心との繊細さを美しく感覚に映した短篇をもってあらわれたの
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