本の常識のなかにある美の感覚も余ほど自由に解かれたことが思われるのである。そして、このことは『明星』のグループとして活躍し藤島、石井その他当時の若い印象派の洋画家たちの熱心な美のためのたたかいの成果と切りはなしては考えられないことであろう。
このようにして、漸々《ようよう》肉体の表現にも美をみとめるところまで来たロマンティシズムが、『明星』特に晶子の芸術において、女性みずからが自身の精神と肉体との微妙な力を積極的に高唱する方向をとって来ていることは、極めて注意をひく点である。
たとえば人口に膾炙《かいしゃ》した「やは肌の」の歌にしろ、そこには、綿々たる訴えはなくて、自分からの働きかけの姿があり、その働きかけは、
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罪おほき男こらせと肌きよく
黒髪ながくつくられし我れ
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という、自覚に立ってはじめて可能にされている。そういう晶子の情熱と自覚とはあくまでも感情的なものであったが、その特質を、鉄幹の「荒男神」的ロマンティシズムの根にあった現実性との結合で観察すると、「やは肌の」の歌も「罪おほき」の歌も、今日の読者には一種のいじらしささえ加えてよみとれて来る。何故なら、感情の溢れるまま、主観の高まりのまま、そのような歌のしらべで発足した晶子も、やがては、
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男とはおそろしからぬものの名と
云ひし昨日のわれもなつかし
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と、詠んでいるのであるから。もとよりこの一首のこころは複雑で、男のおそろしさという表現のかげには、女が女の心と体の恋着のおそろしさに深くうたれる思いをよみこまれてはいるのだけれども、それでも、猶このたゆたいは、生活的な日々の現実のなかで男と女とがかかわりあってゆく間の、女の身からの感懐が語られているのである。
文学の形式として、その色彩やリズムとして濃彩なロマンティシズムがうけいれられながら、晶子の歌には当時の現実の中に生き、現実の良人と妻とのいきさつに生きる女として、五色の雲に舞いのぼったきりではいられない様々の感想、自己陶酔に終れない女の切実な気持などの底流をなすものがどっさりある。
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花に見ませ王のごとくもたゞなかに
男《を》は女《め》をつつむうるはしき蕊
あはれなる胸よ十とせの中十日
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