持が惻々として迫って来るというところに筆が到るには、花圃の人生は、未だ浅くあった。やみがたい内心の叫びがほとばしったという作品では元よりない。謂わば才に従って偶然に書かれた「藪の鶯」一篇には、しかしながら、何という生々しさで、日本の明治二十年という時代の波の影がさし込んでいることだろう。
「藪の鶯」の開巻一頁は、こんな工合ではじめられている。男「アハヽヽ、このツーレデースは、パアトナア計りお好で僕なんぞとおどっては夜会に来たようなお心持があそばさぬというのだから」女「うそ。うそ計。」云々、と。
これは鹿鳴館の新年舞踏会の場面である。恐らくあたりに響いていたであろう音楽や、人のざわめく雰囲気の描写などは一切なく、桃色こはくの洋服を着てバラの花を髪にかざし、赤い房の下った扇子で折々胸のあたりをあおいでいる美しくも凜としたところのある「年のころ二八ばかり」つまり十六歳ばかりの少女。多分に作者の俤を湛えていると思えるこの少女は服部浪子。「白茶の西洋仕立の洋服にビイツの多く下れるを着し」前髪をちぢらせた夜会巻にしているやや年かさの娘は、成上り華族で、家の召使たちにまで西洋風の仕着せをきせている極端な欧化主義者の娘篠原浜子。この浜子が、交際の自由だの社交の術だのを、放肆ととりちがえて、家へ出入りの男と誤ちに陥る。ロンドンへ留学していて、浜子の良人となる筈であった養子の篠原勤は、本場で暮して見て日本の猿真似のような皮相の欧化にすっかり嫌気がさし、帰朝後は、些も心がたのしまない。そこへ浜子の不品行がきこえ、結婚は断念して浜子に財産をつけて相手にやるが、その男にはお貞というしたたか者がついていて、浜子は遂に悲惨な境遇になってしまう。勤は、生意気でなくて、しっかりした娘として毛糸編物の内職で弟の世話をしてやりながら弟に教えてもらって英語の万国史などをも読み、和歌も上手な松島秀子という娘と結婚する。その結婚式は芝の紅葉館であげられて、「藪の鶯」は大団円となっているのである。
どこやらに、極端な欧化主義への懲戒めいたところのうかがえる筋立てである。一回ごとに、作者の感想と思われる一見識が披瀝されている。鹿鳴館の夜会で桃色こはくの服を着た少女浪子が「うちでは交際の一つだと申してすすめられますけれども、どうもまだ気味わるいような心持がいたしまして外国人とはよう踊られません」というのなどは、
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