手びき「小説神髄」につづいて、書かれた小説であった。この一篇には、逍遙がそれを書いた当時の社会の歴史的な矛盾や、作家として個人的な持ちものの特色などが、複雑に絡みあってあらわれている。先駆的な価値は十分評価されるべきものだが、作品全体から云えば寧ろ、逍遙が理論においてはそこから脱しようとしていた戯作者風の調子のつよくしみ出たものである。その調子は今日の読者に生活感情として馴染《なじ》みにくいものでもある。この「当世書生気質」の出た二年後の明治二十年に、二十四歳であった二葉亭四迷によって「浮雲」が書かれたとき、その頃の習慣で、はじめの部分を発表するときには自分の名をかして、二葉亭四迷と春廼屋朧共著という体裁にした。しかし、二葉亭の作品を見て聰明な逍遙は小説家としての自身の資質に深い反省をもった。イギリス文学から、現実主義の文学を主張した逍遙とは異って、ロシア文学の深い教養と、そういう文学に入ってゆくにふさわしい真摯な性格とをもつ二葉亭は、「浮雲」によって、逍遙にこれまでの自身を深思させる人生と文学への態度を示したのであった。将来の小説と小説家の生きる態度について、遠く見とおすだけの真面目さをもっていた逍遙は、文学者又処世人として最も現実的な良識をはたらかせ、以来次第に小説の筆を断った。そして、日本における新劇運動とシェイクスピアの翻訳とに自己の歴史を完成させた。
明治初年の思いきった欧化教育をうけ、男女交際を行い、馬車にのって夜会にも行く明治大官の二十ばかりの令嬢が「当世書生気質」をよんで「これなら書ける」と思ったというのは、今日の目から見れば、なかなか面白いところだと思う。その明治二十年こそ「浮雲」が与えた衝撃によって新しい文学への思いがゆすぶられていた時であったが、花圃の生活環境は「当世書生気質」を先ず彼女に近づけたということも意味ふかいし、更に、当時の新教育をうけた一人の若い婦人の心持として、その作品の世界に大した反感も感ぜず疑いをも挾まず、誘い出されて小説を書いたというのも、婦人の生活と文学の成長の歴史と関係して、何かみのがせないものを感じさせる。
会話中心に、短く一回一回局面を変化させ、雅俗折衷の文章で話の筋を運んでゆく趣向にしろ、その局面のとり合せにしろ、「藪の鶯」は「当世書生気質」の跡をふんで行っている。独創があるということは困難である。作中人物の心
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