を多数《おほく》にとりて晴れの場所にて為すぞよき。」そういう人生観に立って、お近は大学出の伜与之助と金持田原の娘との結婚話をすすめてゆく。
「わが為の道具につかひて、これを足代《あじろ》にとすれば何の恥しきことか、却つて心をかしかるべし」そして、「思召はきれいなりしが、人をも世をも一包みにする量なければ小さき節につながれて」「小さき結構人」で終った亡夫を罵っている。
更に目をひかれることは、このようなお近が末は一緒と思っていたお新を遠ざける方策をたてたりしていることに対して、与之助は優柔不断で、われながら解しがたき心のいず方に向いてすすむらんという状態のうちに、周囲ではどしどしことを運び、一番弱いお新が思いあきらめて、恋しいときはお姿を描けるように、と田舎住居の絵師の召使いとなって去ってゆくのである。
お近にこめている一葉の筆の力、それに対して与之助がたたかう力をもたない人物として現れている作者の内面的な機微、これらのことを、丁度一葉がこの作品をかいている最中に本郷の天啓顕真術師久佐賀義孝という男のところへ身のふりかたを相談しに行ったことと思い合せると、今日の読者として或る感想なしには居り難い。
萩の舎の代表する社会層の空気に反撥を感じつづけて来ている一葉は、そこにある富貴と同じ内容の他の極として自分の貧を対比して、そのどんづまりで一躍、生ぬるい富貴栄誉に水をあびせるような飛躍を希いはじめたのであった。一葉は「うき世にすてものゝ一身を何処《いづこ》の流れにか投げ込むべき、学あり力あり金力ある人によりておもしろくをかしくさわやかにいさましく世のあら波をこぎ渡らん」とて、久佐賀の許を訪ねた。運を一時のあやふきにかけ、相場といふことを為して見ばやと相談した。
日清戦争がまさにはじまろうとしていた二十七年の二月、北村透谷がそのロマンティシズムの窮局に見た絶望によって自殺する三月まえ、堺枯川が小説などかきはじめていたこの時代の日本の、より近代資本化への社会的混乱のなかで、二十三歳の一葉が、おもしろくさわやかに世を渡らんと相場を考えたというのは、決して只糊口のしのぎのためでなかったことは、種々の点から理解される。
天啓顕真術がまやかしものであったこと、久佐賀が面白い女とみて、妾のようにしようとしたこと、それに対して一葉が味のよい啖呵をきったことなどがあって、それが転機
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