て遂にここに朽ち果て終る我が身かという不安は、追々新たな落つかなさ、焦燥となって迫って来たにちがいない。
 周囲から日夜あたえられる刺戟は、そういう不安からの脱出の方向の求めかたにも影響している。焦燥は一葉のこころをこれ迄になかった射倖的な、僥倖をさがす気分に狩り立てて行ったように見える。
 二十七年の二月に、こんなことがあった。廓生活の見聞からであろう、美貌で才のある女は、よしやしもがしものしななりとも、遂にあまくも棚引位、山のたかきにのぼることもむずかしくはないだろうと云ったら、妹の邦子が、それはみさおというもののない人でなくては出来ないことだと云ったに対して、一葉は、
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くれ竹のぬけいづるさへあるものを
      ふしはこのよになにさはるらむ
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と詠んでいる。
 二月に門人の花圃が歌塾をひらくことをきいた。中島歌子は一葉にもしきりにすすめて、いかでこの折すごさず世に名を出し給はずや、と一葉の心を誘い立てている。
 この月に一葉が「花ごもり」を書きはじめていることは、私たちの関心をひく点である。七[#「七」に「(ママ)」の注記]月号の文学界にのったこの「花ごもり」は、一葉の小説としてはじめて性格らしい性格をもったお近という五十女が描き出されているばかりでなく、余蘊なくリアルにうつされているそのお近の世道観、処世哲学というものは、よくもわるくも浮世はこうしたものという腰の据えかたに徹したものである。お近のモラルはこうかかれている。「親子夫婦むつまじきを人間上乗の楽しみといふは、外に求むることなく我に足りたる人の言の葉ぞかし。心は彼の岸をと願ひて中流に棹さす舟の、よる辺なくして波にたゞよふ苦しさはいかばかりぞ。」「今の心いさゝかは屑《いさぎ》よからずとも、小を捨てゝ大につくは恥とすべきにも非ず。」「陋劣《さも》しきことゝ誹るは誹る者の心浅きにて、男一疋なにほどの疵かはつかん。草がくれ拳を握る意久地なさよりも、ふむべき為のかけはしに便りて、をゝしく、たけく、栄ある働を浮世の舞台にあらはすこそ面白けれ。」「望は高くせよ、願ひは大きくせよ。」「卯の毛の先きの疵もつかで五十年の生涯を送りたりとて、何事のをかしさあるべき。一人に知らるべきことは百人に、百人に知らるべきことは万人の目の前に顕はして、不出来も失敗も功名も手柄も、対手
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