期に決してただではすまないことを意味した。戦争の強行に女子の勤労動員が益々大量になり、家庭を破壊された妻、母たちの生活不安が増大し、それは必然に前線の兵士たちの不安となって戦争を懐疑させようとするとき、故国から、よく感動も表現しそれをつたえる筆をもつ婦人作家たちを、前線慰問にやることは、軍部として最も近代的な文化性[#「文化性」に傍点]の発揮であったのだろう。軍は、女子勤労動員の一つの形として婦人作家たちを動員した。個人的な理由ではことわりにくいように動員した。婦人作家たちにとっては、その動員をうけるということが一つの存在保証であったし、男の作家の多くの人がそう考えたように、前線の経験は作家としての自分を豊富にするとも考えられた。日本の封鎖された社会生活、経済生活の貧困さは、こういう機会をさえ、自分の文学の発展の希望と結びつけて考えさせることとなったのであった。
 一九四一年(昭和十六年)十二月八日に太平洋戦争を開始すると、日本の権力者たちは全く狂気の状態になって、全国の社会主義者、平和主義者と思われる評論家、作者、歌人までを逮捕投獄した。婦人作家ではその年の初めから作品発表を禁止されていた宮本百合子が捕えられ、投獄された。そして、一方には、益々婦人を重労働に動員しつつ婦人作家たちに海をわたらせ、南方の諸島だの、ビルマだのへやった。『主婦之友』がその雑誌の一頁ごとに、「米鬼を殺せ」と印刷し、往年の婦人参政権運動者たちは報国貯金、戦時国債の勧誘に全国を遊説し、すべての学校は学徒勤労、学徒動員で半ば閉鎖されているとき、婦人作家たちは何かの婦人代表のようにきおい立たされて、派遣されて行った。
 窪川稲子のような婦人作家までも、その動員に応じなければならなかったことは、一部の人々に意外の思いをさせた。「キャラメル工場から」を書いた窪川稲子、「くれない」を書いた窪川稲子が、侵略戦争のために協力するということは会得出来ないことであったから。一九四六年六月の『評論』に発表された「女作者」という短篇の一節が、この時代のこの作者の心もちを語っている。「戦争に対する認識は、多枝の抱いていた考えのうちで変ってはいないのに、隠れ蓑を着ているつもりの感情が、隠れ蓑を着たまゝ戦争の実地も見て来てやれ、と思わせ、また、兵隊や兵隊をおくった家族の女の感情にもひきずられて、その女の感情で」中国へも立
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