河井が自分の工場を職工の共同経営にゆだねるという態度も、真知子の好みにふさわしいし、まして、金にあかした研究室だけは、安全にのこされたということは、真知子にとって余り運がつよすぎることではないだろうか。真知子は、河井に結ばれるように自分の考えのかわったことが「後戻りしたなんて簡単に片づけられるの、厭なこったわ」と云っている。作者のある心の声がここに響いている。そう感じるのは間違っているだろうか。
作者の意企は、関に会う前の真知子、関とのいきさつの中にある真知子、そのいきさつの破れた後の真知子と、少くとも三つの段階を経て一人の婦人の内部成長の足どりを辿るところにあったに違いない。けれどもこの一篇の初めと終りとの間に果して真知子の本質的な発展があっただろうか。読み終って考えれば、真知子の時代的な冒険の歩みは、とどのつまりにおいて、彼女に、もとのままの彼女の中流的な物質と精神の必要、好み、時代おくれでもなく急進的でもない、自分にのこされた適合する良人、河井を見出させたハッピー・エンドの物語であるとも云い得る。そして、米子は、真知子の工合よくめぐり合わせのかげに無解決のまま、母となった米子のむずかしい人生はもう作者にとりあげられていない。
この長篇「真知子」は、野上彌生子の作家としてのつよい意図のもとに構成されている作品である。中流上流生活の姿も、常識的に描ける範囲ではこまかく描写されているし、関と真知子、河井と真知子などの間に交わされる会話には、芸術の価値についての論議、学問というものが存在しなければならないその意義についての対談もあり、コロンタイズムへの質疑もふくめられている。生きて動いている時代の脈動に対し、時代的なトピックに対する作家としての積極的な反応を示そうとした力作である。が、その作品の内部に、主観的に客観的につめこまれているはげしい混沌もまた何とこの作家の属している上層有識人たちの歴史的な性質を語っていることであろう。全体としてその混沌はこの階層の歴史的な諸要素を照りかえしながら、同時に、作品を貫いているテーマの発展とその帰趨においては、この作家の精神の曲線の特徴的なカーヴが描き出されている。このことも亦示唆に富んだ事実だと思う。
ホトトギスに、厭味のない、あっさりとしたつつましい作品を発表して以来、この作家はその身辺の事象を作品の中に捉える観察の投げ
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