に対すると大差はないので、勿論君に感じるものとは性質が異っているから、僕自身としては気持に矛盾はない。努めて君をさけようとしたのは」と関の持ち出すのは、「個人は常に無であることを必要とする生活に、最も個人的な恋愛を入れるのは、どんな形においても無理だ」という考えからである。それが活動の妨げになる実例を関は見て来ている。大庭とのことは、「彼女が大阪へ行ったことは結末がついたようなもんだから」というのが関の云い分なのである。
一人の女性が否定的な環境から脱皮しようとするとき、その飛躍に手を貸す友情的な助力が結婚と同義語的に見られ得ることなのだろうか。又、男同士の友情の延長だと、その妹に子をもたせるような関係に入ることが自然な人間性だとでもいうのであろうか。まして、米子が大阪へ行ったから、もうけりはついたと思ったという関の情理の粗末さは、あり来った男の無責任とどうちがうだろう。関のこれらの判断は混迷して非条理であるし又人間らしくもなければ、自覚ある男らしくもない。恋愛というものの内容に何の新しい本質も見出さないままで、ただ「私的」問題とされていることなどについて、作者は分析も疑問も与えていない。大庭との恋愛のいきさつについても作者は関を追求し得なかった。作者の観察と勉強によって作中につかまえられて来た関は、遂に作者の手に負えずそれはそれ、としたまま、真知子が「全女性のものであった憎みで」次のように叫んだことに作者としての感動を合わせている。「女がひとりで母親になれるとお思いになるんですか。あんたは望みもしなかったことを米子さんだけ望んだと仰云るんですか」と。ここで、テーマはいつの間にか、嘗て『青鞜』がそこを脱出し得なかった社会の段階へ、捩り戻されているのである。
人間のみんなから貧乏をなくするように、こういう女の苦しみもなくなるのでなかったら、何になるだろう。斯んな思いで苦しむ人が一人でもいる間は、どんな見事なくみ立てで未来の社会が出来上ろうとも、真知子には、決してそれが完全な社会ではないと思えるのである。
真知子の、この半分ものがわかり、半分はまるでものの分っていない疑いに答える関の言葉には、極めて真面目に歴史の中にとりあげ、見直されなければならない重大な錯誤がふくまれている。「人間に病気があるように、貧乏のない社会が来てもその種類の苦痛は多分残るでしょう。併し個
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