て、女に辛い未亡人の立場を反駁した「未亡人論」など、ひろく流布した。
 当時三宅やす子の平明な人柄や常識性が、一般家庭の婦人の前進性の一番近い啓蒙となったことは肯ける。しかし、「未亡人論」によって因習とたたかって立った三宅やす子は、その後十余年のジャーナリスティックな活動とその成功のうちに、いつしか、彼女自身のうちに根づよくあった旧套に足をうばわれた。自身の生活にある両性関係の現実においても、窮極は、独立している女の自由というものの解釈において、田村俊子の後期の作品に表白されたと同じ卑俗に堕した。「一本立で、可愛がるものは蔭で可愛がって、表面は一人で働いている方がどんなに理想だかしれやしません。」婦人の幸福というものがそこにあり、その形でよいものならば、抑々三宅やす子は、何のために「家庭は家庭」として妾をもつ男の性的放縦とそれを許している社会の習慣に抗議したのであったろう。「偉い男がお雛妓《しゃく》を可愛がる。そのように女が男を可愛がって何故わるいのだろう」そう云って、素性もいかがわしい若い男をひきつけて暮すのが婦人の自由の確立であったのなら、逆の隷属物としての女を、未亡人の立場で非人間に封鎖して来たえらい[#「えらい」に傍点]男の自由を、何の根拠で咎めるのであろう。女としてすこし明るい常識に立つ発言でジャーナリズムにおける常識の指導者となり、その成功の果は、菊池寛が陥ったと全く同じな社会悪に対する感覚欠如に陥った三宅やす子の生涯の後半は、無限の教訓にみちている。
 時代の内容は複雑であった。両性問題についてもはっきり、階級の姿が見られた。失業と生活困難とを根底において、ルンペン的になった小市民層の男女の感情は、当時の急進的な見解が小市民層というものを規定した簡単な否定的な評価に反撥して我から虚無的になり、旧い道徳の規準は破れたが、未だ新しい道徳は確立されていない性問題に虚無性を結びつけて実践して行った。失業と生活難をよそに有産有閑の男女には戦後の経済変調によって失われてゆく従来の家庭の安定性の崩壊があり、不良良人のためには、慣れっこになった芸者ではないステッキ・ガールと呼ばれた若い街の女たちがあらわれた。不良マダムという名のもとによばれた不幸な妻たちの周囲には、彼女たちの空虚にくい下る各種各様のとりまき男が出現した。
 これらに対して、昔ながらの勤労と家庭の負担に
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