派だとか云ってやぶにらみしているのは洵に意気地がない話である。」「作家が己れの感情を自ら批評するということゝ、己れの感情を社会的に批評するということゝ、現実に於てどこが違うか。」市民社会を経験しないまま今日に立ちいたった日本文学の惨苦は、人間性について又己れと社会とのこの関係が、小林秀雄と同じように多くの作家によって正しく把握されていないからこそではなかろうか。「言葉というものは、こんがらかそうと思えばいくらだってこんがらかすことが出来ます」「問題を解くことゝ解かないことゝは大変よく似ている」(おふえりや遺文)という評論家小林秀雄は、プロレタリア文学理論が、様々の未熟と曲折を経ながらも、昔から感性的に主観的にばかり存在した日本文学に少しでも強固で合理的な理解と発展のよりどころを与えようと試みている努力を、片っぱしから「こんぐらかす」ことに得意の技をふるった。プロレタリア文学の動きは若々しく青年らしく、この社会と文学のすべてを知ろうと願う動きである。自分の苦悩について、自分たちの夢について、一心に解ろうとし、それを解決しようとし、それを発展させようとする動きであった。それ故、その理論は究明であり、より分るように、という方向で押された。小林秀雄に対する興味の一部は、謂わばそのよこについて歩く、彼の「こんぐらかし」工合が眼目である。小林秀雄にかかると分っている筈のことが分らなくなって来る、その麻痺が、面白いという魅力で表わされるのである。丁度、子供がぐるぐるまわって目をまわして、その眼にうつって揺れる部屋や景色に興がるように。小林秀雄の面白さは、あらゆる意味で文学の本質をゆたかにする力を欠いている。何故なら、彼の存在意義は、彼の「こんぐらかし」術にかかっており、万一彼が、知識人らしいまともの分別に立って社会と文学とを理解したならば、もう今までの小林秀雄ではなくならなければならないから。単に、文学意識に於てさえも非常におくれた日本の一人の平凡な評論家を露出するにすぎないから。そして、刻薄な現実として、利潤を追うジャーナリズムと出版のある限り、小林秀雄は、その「こんぐらかし」によってのみ評論家として存在しつづけることが出来る。おくれた社会的覚醒が日本の社会と文学とにはびこっているその割合で、条理にくらく、感覚にぶく、分らないのが勿体なく思われる横光利一の小説が出版されつづけら
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