を貫く人生への態度がそれぞれに相反した本質のものであった。「恩讐の彼方に」は人間的行為の純粋な理想への憧憬を示し、「忠直卿行状記」では人間関係の、社会的地位に害されない真実さが求められた。「屋上の狂人」は、狂人なりにそれに満足しているものなら、何故はたのおせっかい[#「おせっかい」に傍点]でその平安を乱す必要があるか、というバーナード・ショウ風の常識を語っている。この時代から彼の「屋上の狂人」に示されている常識が伸長されはじめた。久米正雄が「破船」などの通俗小説で、大衆作家としての存在へ一歩を踏み出したのもこの時分のことである。大戦後、急に膨脹したジャーナリズムの資力と形態とは、このようにして当時中堅作家と云われた作家たちを、大幅に通俗小説の領域に吸収して行ったのであった。
同時に、従来の文壇で流行作家と云われていた人たちの活動にはおのずからその発展の限界が見えて来て、震災を境として、著しく停滞しはじめた。
「暗夜行路」前篇を終った志賀直哉は大正十四年ごろから「山科の記憶」その他の短篇を書きだした。作品からの抜きがきをいきなり作家の生活の現実にあてはめて見ることは危険を伴っているが、「邦子」のなかで作者が語っている数行はこの時期の作者の現実にふれていると思う。「邦子」において志賀直哉はある芸術家の生活を描き、無事平穏な日常生活が文学者である主人公を苦しめている状態を描いた。「それが自分を成長さすものならば」という気持で「自然、何か異常な事柄を望むようになっていた」と。これは、当時のこの作家の或る感情を語っているであろう。異常なことを求めても、作中の文学者と同様に、志賀直哉は、擡頭して来たプロレタリア文学の新しい波を身にかぶるような経済的、教養的な必然は持っていなかったから、その人の環境らしい対象の恋愛に動いた。「山科の記憶」「痴情」「晩秋瑣事」等、そこに東京をはなれた京都暮しの時代の一つの世界が描きあらわされた。
「暗夜行路」と前後して「多情仏心」を完結した里見※[#「弓へん+享」、第3水準1−84−22]は、有島武郎の兄弟であっても、武郎とは非常にちがった常識と古さに自分のモラルの土台をかため、自身のまごころ[#「まごころ」に傍点]道にそろそろ安住しはじめた形であった。室生犀星の「庭を作る人」の出たのもこの前後の年代であり、貧しき詩人として出発した犀星は、流行作
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