そろしい爆発の記念であった。
 東京中心の大地震、それにつづく大火災という災厄のごたくさまぎれに、朝鮮人の大量虐殺と社会主義者の殺害が、警察力によって行われた。無産階級文学運動に批判者としてあらわれていた平沢計七そのほか七名の人々が、亀戸警察署で殺されその死体は荒川堤にすてられた。アナーキズムの指導者として、クロポトキンの「革命家の思い出」ロマン・ローランの「民衆芸術論」の翻訳などのあった大杉栄がその妻伊藤野枝と幼い甥の宗一と一緒に、憲兵隊につれてゆかれ甘粕憲兵大尉とその部下によって縊殺された。そして、三つの死体は古井戸に投げすてられた。日本の民衆の自由、独立を求める精神を圧殺した治安維持法の発端は、震災の時に山本内閣によってつくられたのであった。
 一九二三年九月におこった、自然的災害というよりもむしろこの社会的反動の暗く野蛮な現象は、一般の文化人を非常に恐怖させた。当分は、雑誌も出ないであろうし、小説などというものの存在さえ可能を失うのではなかろうか、という恐慌的な意見も、作家の間に生じた。大杉栄一家を殺し、平沢計七その他を殺した権力の暴力はその後二十二年間に亙って存続し、益々陰険に多くの犠牲者を出しつつその活動をつづけたが、出版事業の方は次第に恢復し、作家の活動は再開したのであった。一九二四年の六月頃には、震災と反動の波の下でつぶれた『種蒔く人』の後身である『文芸戦線』が発刊され、二五年の中頃からは、再びプロレタリア文芸運動も前進をはじめた。
 ここで、第一次欧州大戦後の日本の文壇がどういう状態におかれていたかということを改めて見わたす必要がある。
 第一次大戦中からひきつづく好景気と物価騰貴につれ、一般に作家の原稿料がひき上げられた。一九一八年に、米が一升五十八銭になったために富山の漁民の妻たちがその烽火をあげた米騒動が全国に波及した。一方では、内田信也その他の戦時成金が出来て、純金の足袋のコハゼをつけて誇示する有様もあった。所謂好景気につれて、出版企業も急速に大きくなる方向を辿り、従って、作家の原稿料もいくらか高騰したのであった。
「無名作家の日記」から発足して多くの短篇をかいていた菊池寛は、大正九年朝日新聞に「真珠夫人」を連載して、好評を博してから、段々と新聞小説に移りはじめていた。菊池寛の「屋上の狂人」と「恩讐の彼方に」そして、「忠直卿行状記」は、作品
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