見られて、文学がそれとして働きかけてゆく能動の機能は見落されていた。「宣言一つ」には、インテリゲンツィアのそういう歴史的な悲しい絶望がまざまざと浮き彫りされているのである。
「宣言一つ」は有島武郎自身にとっても前途への一つの暗い宣言となって、一九二三年(大正十二年)波多野秋子とともに、軽井沢で遂にその生命を絶った。
 有島武郎と親交があり、ロマンティックな作風から次第に無産階級文学の中心に入って来ていた藤森成吉は、やがて二年の間、労働の生活に入った。その動機には、友人であった有島武郎のこの生涯の推移が影響したと見ても、不自然ではないであろう。有島武郎を死へ動かしたものを、藤森成吉は、知識人として発展の可能の方向へ新しい歴史の担当者であるプロレタリア階級により直接移行するために、当時の考えかたにしたがって肉体の労働生活の実践に入ったと見られる。この労働経験から「狼へ!」という報告文学がかかれた。その後文芸論では、嘗て有島武郎に「宣言一つ」を書かせなければならなかった階級の文化・文学上の理解について未熟であったいくつかの点を前進させた。一九二一年十月(大正十年)進歩的な若いインテリゲンツィアによって創刊された『種蒔く人』は当時唯一のプロレタリア芸術運動の組織的な雑誌であった。
 この時代に、今日も猶歴史的な文献としての価値を失わない細井和喜蔵の「女工哀史」が書かれたのであった。
 深く且つひろい社会の動きと文学の渦潮とは、次第に婦人作家の生活にも波及したのであるが、其の形には個々の婦人作家の生活態度が微妙に映った。
『青鞜』時代、野上彌生子はソーニャ・コ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]レフスカヤの伝記翻訳を連載して、読者をゆたかにするとともに、着実に自身の文筆生活と家庭生活とを時代の怒濤から守りつづけ、『青鞜』の朝夕をめぐった騒々しさに自分を捲き込ませなかった。
 人道主義の時代に入るとともに、この婦人作家の生活に母親としての生活面が展開されて、大正初頭の「新しき命」「二人の小さい兄弟」などは、山の手の中流知識人の家庭の情景と、エレン・ケイ風に新しい生命を尊重しようとしている大人と天真な子供らの姿が、ヨーロッパ文学の匂いと艷とをうけついだ表現で語られた。
 民衆の文学の理論の萌芽時代はどこまでもインテリゲンツィアらしいこの婦人作家に、或る精神の抵抗を感じたらしく、
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