学校を出て、職業についたような若い婦人たちを包括し、その経済上の自立に向ってゆく感情も、彼女たちの主観では、やはりその頃社会の隅にまで漲っていた「あらゆる人間が人間らしく生きようとする世界の心」にこたえるものがあったであろう。『青鞜』時代を経た若い婦人たちが、いくらかでも旧い因習から解かれようと望めば、経済の上での自立なしにはそれが達せられないことを、生活の実際から、原因と結果との両面から自覚して来たのであった。
ところが、このようにして、人生へ何かの希望をもって続々と職業に入って来た婦人たちが、その後のごく短時日の経験で、彼女達のとり得る報酬で現実に十分の独立生活は保ち難いこと、さりとて全く旧套に属した家庭内の空気にも耐えないこと、同時に働く女と云っても「女工」とはちがうものとして自分たちの上に見ている様々の小市民らしい色どりの多い気分などは、大正九年の大恐慌にひきつづく震災後の日本にモダン・ガールという一つの流行語を生んだ女群の存在の因子となったのである。その当時では、職業婦人の増大は、明らかに女の生活の社会的進出の活況とみられたのであった。
『女性』だの『女性改造』だのが、既に大正五年発刊されていた『婦人公論』などとともに、伸び拡がろうとする婦人の社会感、知識慾、芸術への愛好心を扶けようという目的で編輯され始めた。
その時分の『婦人公論』は『中央公論』によく似た編輯で、一方の論説欄に婦人に関する諸問題をとりあげているのがその違いであった。『女性改造』は表紙も『改造』そっくりで、白無地に黒く「女性改造」と題字が刷られ、創刊号の巻頭言は、筆者自身の感動をあらわした文章で、婦人の解放のために、率直で正義そのものである言論機関としての同誌の発刊を告げている。内容も、ロマン・ローランの「日本の若き人々へ」を初め、婦人の職業と民法の婚姻に関する法律の問題、山川菊栄の婦人運動の新局面についての論文などをのせた。貞操の問題についても、科学的な立場で研究するという態度が示されている。
それらは、どれも根本の心持では真面目で向上的な姉妹雑誌としての立て前に立ち、表紙も内容の扱いかたも無駄な飾りがすくなくて、いかにも婦人の生活発展への真率な期待に充ちたものであったことは、今日の私たちに、尠なからぬ感慨を与える。
明治十八年に、巖本善治等によって『女学雑誌』が初めて創刊された
前へ
次へ
全185ページ中85ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング