立体性、客観性を求められるものである。日本の女性が社会の過去から負うて来ている様々の持ちものは、そのような文学のジャンルにおいて特に力の不足が露出して、佳作を生み得ないということも云えるであろうと思う。外国の文学の歴史にも婦人のドラマティストは実に稀であるのだから。
けれども、他方には、女性の劇作家が生れ難くされているような社会の習俗そのものの最も伝統の重しのつよい、最もしきたりずくめの部分が、近代興業資本と結びついた芝居道であるということもその原因をなしている。
劇作を試みて、いくらかその間の事情に通じたとき、若い婦人作家たちはそのように伝統や金力やに制せられた舞台裏の現実に失望すると同時に、やはり芝居を好む気持は捨てられず、その矛盾の間で自身の芸術への努力を一部は諦め一部恋着するアマチュア風の穴へはまりこむのではなかろうか。
小山内薫の新劇運動の流れや前進座の劇団としての発展性は、その本質のなかに婦人劇作家の誕生を期待する要素をもっているのであるけれど、やはりまだ永く忍耐づよい明日が待たれなければならないのかもしれない。『青鞜』は雑多な文学の芽生をそこに萌え立たせ、吉屋信子も稚い詩で、岡本かの子もその和歌で、一つの時期をその頁で過したけれど、一人の婦人劇作家も生み出すことはなかった。ずっと後、昭和に入って『女人芸術』の出来た頃戯曲で出発した円地文子が、それから後に小説に移ってしまっている事実も、私たちに婦人劇作家の成長の困難さについて考えさせる一つの実例である。
六、この岸辺には
一九一八―一九二三(大正中期)
日本の婦人の生活は、第一次欧州大戦終結を境として、各方面に大きい変化を生じた。「職業婦人」という言葉が出来たのも、この時代からのことであった。
大戦後の日本は好景気を現出して、一時に膨脹した諸企業は、どんどん若い婦人たちをひき入れた。同時に、これまでにない物価騰貴は、一家の経済の必要からも若い女を家庭から職業へと歩み込ませた。これまで働く婦人と云えば、志を立てて上京し新聞雑誌の記者として働いている少数の特殊な人たちか、さもなければ電話交換手、女店員、あとは夥しい女工、女中で、これらの勤勉で無知のままに暮している同性たちへの関心は、一般の女のひとの心に決して目ざめていなかった。十年前の『青鞜』の動きは、婦人の社会
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