生涯は、生活と芸術との現実的な推進の関係ではかられるべきものという理解に立った。生活そのものに向う動的な態度では、ホトトギス派を文学の苗床として成長した野上彌生子の現実鑑賞の態度とはおのずから質において異っていた。トルストイ、ロマン・ローランなどの芸術家としての生きかたに強く共感していたけれども、中流家庭の環境のなかで、自然に発生したそういう成長の意欲は、若い女の場合孤立的であったし、方向も定めがたいものであった。偶然のことから父につれられてアメリカへ行き、丁度欧州大戦休戦の前後、紐育にいた。そこでの感銘深い見聞は、漠然とした人道主義に対して一つの疑問を抱かせた。引きつづいて、より現実的な生活拡大の希望で結婚した。その結婚生活では、対手の生活目標とのくいちがいがあって数年に亙った苦しい生活の後、離婚した。そういういきさつの裡に、女として自身の抱いている人間的希望の社会的な関係、土台というようなものも徐々に作家として自覚されつつあったのであった。
 大正八年に当時名女優として高く評価されていた松井須磨子が自殺した。
 芸術上の指導者であり愛人であった島村抱月が死んでから後一年の生活が、遂にこの情熱的な女優に死を選ばせるに到った動機は何であったろう。我儘一杯にふるまって来た彼女が、身をもてあました結果とだけ見るのは皮相である。島村抱月は新しい演劇運動の指導者であったばかりでなく、婦人問題についても、系統立った真面目な見解をもっている人であった。須磨子は舞台に情熱を傾けつつ、「『人形の家』を人間の家とするの」は、抱月在って初めて可能なことと思えたであろう。その抱月は急死し、芸術座の経営の困難と、自身の女及び芸術家としての成長の苦難は余り巨大に目前に迫った。その半身は芸術的にも成人しており、又成人として現実生活に当ってゆかなければならない必然にさらされつつ、猶その存在の奥に過去の社会の重い暗い感情を内部のものとしても持っている日本の一箇の女である須磨子の自殺は、積極的な精神と肉体とがその深刻な矛盾に向ってうちよせて来る力に抗せず、倒れた悲痛な姿と見えるのである。
 須磨子がいくつかの短い小説を書いていることを人は記憶しているだろうか。
 大正二年という年は、『青鞜』創刊から三年目、丁度坪内逍遙の文芸協会から島村抱月と松井須磨子とが脱退して芸術座を組織した時であり、婦人問題に
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