て小説に筆を染むる者のあるのは、勿論近代自意識に伴う競争心から来たので、多くは模倣でありましょう――尤も男子にだって其は免れないが――要するにまだ/\個性を発揮したものは無いだろうと思われる。」と結んでいるのである。
 或る意味では当時の知識人の常識の代表者のようでもあった漱石が、その進歩性として、学問や職業の部面では男女の性別や境遇の相異が消えるべきものだとしている点、所謂女らしさを要求する俗見に反対している点などでは、明らかに女の社会的な活動の可能をより広い方向において受け入れ認めようとしているのである。けれども、同時にいかにも当時の社会感情らしい矛盾もあって、観念の上では素朴に男女同権を承認しつつ、実際に処して、嫁、又は妻という位置で女を見る場合には躊躇なく旧套の目やすへ置きかえている態度は面白い。
 女が小説をかくからと云って、その観察は何《いず》れも衣裳や髪容の描写にとどまらず題材としては男と同じものを扱ってよいと云うことにつづいて、すぐ男子の心理状態の解剖をいうところへ飛躍して云われているところも、男女の対立の範囲で婦人の問題が観られていた当時らしい考えかただと思える。
 また、作品の創られてゆく生々しい内的過程から推して、芸術の世界の現実は、果して男の盲人の弾く琴と令嬢の稽古事として弾く琴とが、変りなき同様の曲節を奏でることがあり得るだろうか。漱石は、自然主義に反対して芸術の世界を、生活的世界と一応切りはなしたものの裡に認めようとしていた。その作家としての態度が、此処にもおのずから反映している。そして、学問、芸術の前には、俗世間で通用しているような形で、男女の性別はないとしているその仮定から、却って、婦人作家の生れて来る現象についても、女の止めがたい息づきによるというよりも、寧ろ近代自意識に伴う競争心をその内的な動機としてみるという、皮相な見解に陥っているところは一層興味ある点だと思う。
 漱石が女性に対して抱いていた考えかたの中には、一貫して、彼のうけた儒教的教育と西欧的教養との相剋が見られる。
 漱石は、「吾輩は猫である」などの中に、女を、ソクラテスの有名な駻馬的細君を例にして、苦い皮肉と笑とで扱っているが、「行人」を読んだものは、学者である主人公と共に、この作家が「女のスピリット」を攫もうとして、苦しい焦燥にかられていることを印象されるのである。
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