。
このようにして、『青鞜』が明治の末から大正の初めにかけて持った歴史の役割は遂に終った。時代の波頭にもたげられておこり、又時代の波頭にうたれて砕け散ったこのグループの消長は、日本の中流女性の前進性の絵巻として、広汎であったその影響とともに、その終末の形においても、私たちに多くの学ぶべき様相を示したのであった。
五、分流
(大正前期)
明治四十二年の二月ごろ、『女子文壇』という当時の女性のための文芸雑誌は、夏目漱石の「作家としての女子」という談話をのせている。短いものだけれども、その内容を今日の文学の現実や生活の感情に映してみるとなかなか面白いし、歴史的な意味もある。
「男女の性《セックス》は自然に分賦せられているものではあるけれども、教育は男女の別に拘らず同一の知識を与える。」そう冒頭して、漱石は更に其が職業に用いらるる時は、男女とも異るところなく生活を営んで行くのであって、その点では男女のテンペラメントが次第に同化されて来る。琴などでも男の盲人が習った琴も、令嬢が教えられた琴も、変りなく同様の音曲節奏となって現れる、と解釈している。さて、婦人にして小説を職業もしくは道楽としている人があるが「女だから男子と同様のものを書くべきもので無いとは云い得られないのは勿論である。女であっても、其得意とする衣裳や髪容の細かい注意以外に或は男子の心理状態の解剖を為し得べき能力あるは、猶お男子にして婦人の心理解剖を為すに等しいものであろう。要は作品の問題で、畢竟佳い作品さえ出来ればそれで宜いのである。外国ではエリオット女史の如き、随分男子以上のところ迄突き進んでいる者もある。故に其作品から見て、成程遉がは女らしい筆致が見えているとか何とか云い得られようけれ共、其を逆に、其女らしいところが無いから其小説は偽だとか何とかいう批評は加え得られないのである。
併し又、一方から作品と作者を分けて、どうも恁ういう甚しい事を書く様な女は嫁にする事は困ると云うのは又別で、作品の上には云い得られないが、作者の上には云っても差支は無い。
けれ共又、他方から考うれば作に現れた芸術上の我と、然らざる平常の我とは別物であって、作家は二重人格《ダブルパーソナリティー》であるべきものだと云った考えを持っているかも知れない。是も亦不当でないと思うのであります。
女子にし
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