庭的環境の内での男女対立の現実へ彼女たちの目を醒させた。しきたりに圧せられて来ている女の日常が鮮やかに自覚されて、同時にそれに安んじていない女の本心の波立ちも女自身にとって勇敢に肯定されるものとなって来た。一葉の小説の世界では、女の意気地として描き出されていた女の自我が、この時代から初めて近代精神の内容での自我として女に自覚されて来たのであった。そして、時期として自然主義の胎内から生れた水野仙子のような作家でも、彼女が婦人作家として、この近代女性の人間的めざめをテーマとする作品では、寧ろ常に人道主義的なロマン的な主観の燃え立ちで、女のより自由なよりひろやかな生きかたに向って羽搏いているのである。「道」「神楽坂の半襟」等の作品には、この焔の輝きがまざまざとてりはえている。「犬の威厳」に含まれている諷刺の根も、婦人作家としての彼女のその心理の必然につながった作品であろう。
 小寺菊子は、婦人作家としての稟質とすれば、水野仙子よりももっと普通の意味で現実性のつよい作家である。現実の環境を現実的に生き越して今日に至っているひとである。けれども、自然主義の潮流から生れた婦人作家として、独自に綯い合わされた心理の過程はこのひとにも内包されている。自然主義的作品として「他力信心の友」は小寺菊子自身、代表作と認めている作品である。北陸の旧家の沒落と、生来の因業と信心との奇異な混合に生きるおやへ[#「おやへ」に傍点]の悲惨な最期とを、執拗濃厚な自然主義の筆致で描き出している。だが、この同じ作者が、結婚した女の家庭生活と仕事との間にある摩擦や、良人の生活感情と自身の女としての心持との間にある距離。或は恋愛において不幸に陥った女などについて描くとき、自然主義的な筆端は変化して、いつも或る正義感、或る人道的感情で動かされている。そして、この作家の正義感なり人道的感覚なりは、水野仙子の精神におけるほどつきつめられたものでなく、日常の平安をのりこしてまでもゆこうとする性質のものでないために、つまりは常識に譲歩して、自然主義的な真実追求の執拗さもそこで喪われているのである。
 ポーランドの婦人作家エリザ・オルゼシュコ※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ァが「寡婦マルタ」を書いたのは、一八七五年、日本で云えば明治八年頃であった。イプセンの「人形の家」が発表されるより四年前に書かれているこの小説で
前へ 次へ
全185ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング