わるふざけ》をされていた。
その晩もいつものように酒屋は大騒ぎであった。酒の香りに集って来る蚊をバタバタ団扇《うちわ》で叩きながら床几に寝ころんでいる者の中には新さんも珍らしく混っている。
皆が、漬物をつまんだり、盃を廻したりしながら、町の婦人達の悪口や愚にもつかない戯言《たわごと》を云ってワヤワヤしている傍に、新さんは黙って、蚊が一匹溺れている自分の盃を見ていた。
「や、ほんに新さんがいたんだんなあ。あまりおとなしいでいんのー忘れてしまったわえ、さ! 一杯明けな。酔えば天地あ広《ひれ》えもんにならあ」
新さんは酒を飲もうともしなかった。
けれども、今まで放って置いた気の毒さも混って、皆は急に新さんにいろいろの言葉をかけた。
あんな化物豆なんか心配しないで、自分は自分でさっさと遊ぶなり、ほかへ出るなりしろと力をつけながら、あの、子を子とも思わない鬼婆なんかぶんなげてやれとかなんとか罵った。
甚助などは拳骨を振り廻しながら、
「お前さえウンと云や己が黙っちゃ置かねえ」
とまで云った。
チビリチビリと酒をなめながら、皆の云うことを聞いていた一升は話の絶《き》れ間《ま》を待って、重々しく云い出した。
「一体《いってえ》なあ新さん。お前《めえ》はあげえなおふくろー神様か仏様あみたえに思ってんが、第一《でえいち》のまちげえだぞ。お前のおっかにしろ、どいつのおふくろにしろ皆女子さ。どこの世界《せけえ》だて女子にちげえはねえだ。悪《われ》えこったってすらあな。邪魔んなりゃお前をぼん出そうともすらあな!」
「そらそうだべ。けんどあげえなこって親子喧嘩しちゃ、親父《ちゃん》にすまねえ。俺らせえ黙ってりゃすむこんだかんなあ。俺らそげなことをする気はねえ」
「だからお前は仏性《ほとけしょう》よ、めったにねえ生れつきだんなあ。死んだ親父《ちゃん》の云った通りのことー云ってんぞ」
「そいから見りゃお前は、極道者《ごくどうもん》だんなあ、一升」
傍から甚助が口を入れた。
「ほんによ。こげえな極道者の行く先あ大方定ってら」
「お前等今頃んなって、そげえなことほざくんか? のれえなあ。見ろ、俺らのそばにゃもうちゃんと地獄がひっついてら。ほかへ行ぎようもねえじゃねえかあ!」
と一升は、自分のそばに坐って漬物を食おうとしている酌婦上りの女房をさした。
「ハハハハハハ。ハハハハハハ」
「好《え》え気になって、ほざいてけつかんから恐ろしいや」
「そうともよ、好え気になれんのも娑婆にいる間だけのこった、なあ新さん。死んだ後のこと、俺らが知るもんけ!
あとは野となれやま……となーれ。
ヤ、シッチョイサ!
か。
どうだ巧かっぺえ」
皆は破《わ》れるように喝采した。新さんは妙な笑い方をした。
「面白えなあ。踊りてえなあ。ちゃん!」
甚助の子が、よろけながら立ち上ったとき、向うから、これも微酔《ほろよい》の善馬鹿が来かかった。
これで、すっかり元のように賑やかになってしまった。
彼は皆に呼ばれて、また二三杯のまされた。
「おめえ俺らと仲よしだんなあ。善! 踊んねえか? 面白えぞ」
甚助の子は、善馬鹿の耳朶を引っぱりながら、床几《えんだい》の周囲《まわり》を引っぱり廻した。
「こりゃうめえ、さ、踊れ。また酒え飲ますぞ」
「踊れよ、相手が好えや。ハハハハハハ」
「そら踊った、踊った!」
単純な頭を、酒でめちゃめちゃにされた甚助の子は、気違いのようになっていた。
肌脱ぎになり、両手に草履を履くと、善馬鹿の体中を叩きながら、訳の分らないことを叫んで踊り出した。
「や! うめえぞッ!」
「そーらやれやれ。ええか? 唄うぞ!
ホラ
俺らげーの畑でようー……
ホラ、シッチョイサ!……」
「ワーッハハハハハ」
「ハハハハハハ。ええぞッ!」
「ホラ、しっかりしっかり!」
善馬鹿は甚助の子に、ベチャベチャと草履で叩かれながら、着物のすそを両手にとって、ザラッ、ザラッと足から先に踊り出した。
十六
婦人達が来てから一週間はじきに経った。そして、村はだんだん、元の陰鬱な貧しさに落付き始めた。畑の方もだんだん急がしくなって来たので、自ずと酒屋の床几《えんだい》も淋しくなり、下らないいざこざも少くなった。
けれども、町の婦人達の記念として、善馬鹿はすっかり酒飲みになってしまった。皆のなぐさみものとなってあっちこっちで飲まされたためであろう。
私共は、朝から晩まで、彼のだらしなく酔った体が、泥まびれ汗まびれになって、村中をよろけ廻っているのを見るようになった。
彼はどこの家でもかまわずに、入って行っては、
「酒えくんろー」
とねだる。
村道添いの家で、彼に酒をほしがられない家は一軒もなかった。けれども大抵の家では酒を一滴か二滴垂らした水を遣ったのだけれども、彼は喜んで酔っていたのである。
或る日の午後、私共は茶の間の縁側の傍に坐って、胡桃《くるみ》を挽いていた。すると耕地の方から、グルリと廻って庭木戸の中へノッソリ入って来た男がある。びっくりして見ると、善馬鹿だ。
私は何だか薄気味悪くなって、少し奥の方へいざり込んだ。奥にいた祖母やその他の者も出て来て、半ば気味悪く半ばめずらしそうに、だまって庭に立っている善を見ていると、暫くして彼は低い声でかなりはっきりと、
「酒えくんろー」
と云った。
下女は直ぐ立って行って、薄く酒の香いのする水を、破《か》けた飯茶碗に入れて来た。そして遠くの方から手をのばして、
「ホラ、ここさ置くぞ」
と縁側の端に置いてやった。
善馬鹿は下女の手が引っ込むか引っ込まないかに、引ったくるようにして、茶碗をとった。そして、フーフー鼻息を立てて、喉仏をゴクゴクいわせながら一滴もあまさず飲んだ後を、すっかり舐め廻した。
空っぽの茶碗を持ったままいつまでもそこに立っている。下女は穢いから早く逐い出しましょうと云ったけれども祖母は、狂人や何かにひどくすると、あとできっと「あた(仇)」をするものだからと云って放って置かせた。
私は久し振りで善馬鹿の顔をツクヅクと眺めた。今日はどうしたのか、いつもよりよっぽど、小ざっぱりとしていて、さほど臭くもなければ穢なくもない。けれども、精神病者に特有な、妙に統一の欠けた手足の動かし方や、目の使いようが、却って凄く見えた。そして、先達て中よりは、すっかり痩せて、頬などはゲッソリこけている。皺も多くなったし、全体に弱っている。やはり酒などを飲んで、始終興奮状態が続いているのがすっかり堪《こた》えてしまったものと見える。
可哀そうな! あばれるようにでもなったらどうするのだろう。
私はぼんやり母から聞いた北海道の気違いの話などを思い出していた。すると、いきなり善馬鹿は、ニヤニヤしながら、
「飯が食いてえなあ俺らあ」
とつぶやいた。
云いようがあまり子供のようなので、私共は皆吹き出してしまった。けれども、私は下女と二人で丼の中に飯と、昼に煮た野菜と漬物を一緒に山盛りにしてまた、縁側の端へ置いた。
彼は直ぐそれをとった。そして地べたに坐りこむと足の間にそれを置いて両手で、食べ始めた。丼の中ばかりを見つめて、ほんとうにガツガツとまるで飢えた山犬のようにして、掻っ込んだのである。
見ているうちに、私はあさましくなってしまった。
獣より情ない姿だ。こんな哀れな人間に生れるくらいなら、猫にでも生れた方がどんなに幸福だったか分らない。彼にとっても、また彼の周囲の者にとっても、遙かにその方がよかったのだと私は真面目に考えた。そして、見ているに忍びなくなって、後を向いてまた胡桃を挽き出した。パチパチいって破れる殻から、薄黄色い果を出しては、挽き臼でつぶすのである。
暫くすると、善馬鹿は食べてしまって、立ち上ったらしい気配がした。そして、よろけながら両手に空の破《われ》茶碗や丼を下げて、また耕地の方へ出て行く後姿を、私は、臼の柄につかまりながら、何ともいえない心持で見送っていた。秋めいた、穏やかな午後の日射しが、彼の蓬々頭の上に静かに漂っていた。
暑さのためと、気苦労で、養生の行き届かない新さんの病気は、時候の変り目になってからドッと悪くなった。
体中が腫《むく》んだので、立っていることさえ苦しいほどなのを、家にいればおふくろの厭味を聞かなければならないのが辛さに、跛《びっこ》を引き引きあてどもなく歩いて、林の中などに何か考えている新さんを見ると、村中のものは、ほんとに気の毒がって、どうにかしてよくしてやりたいものだと心から噂し合った。けれども、この二三日はもうこれも出来ないほどになったので、家の陰の日もろくには射さないような長四畳にごろ寝をしているときが多くなった。
部屋の直ぐ前から、ズーッと桑畑を越え、野菜の上を越えた向うには、林に包まれた墓地が見渡せた。
新さんは、足の裏に針の束で突つくような痛痒い痺《しび》れを感じながら腕枕して静かに眺めていると、生々《いきいき》した日の下に踊っている木々の柔かい葉触れの音、傍に流れて行く溝流れのせせらぎが、一つ一つ心の底まで響き渡って、口に云われない憧れ心地になったり、遣瀬《やるせ》なさに迫られて、涙組ましい心持になった。
「あの林のかげにはちゃんがいる」
新さんはそう思うと、まだ親父の生きていた時分の事々が、遠い夢のように思い出された。
自分が、まだ七つ八つの頃、あんなに早く死のうなどとは、夢にも思えなかったほど、達者で心の優しかった父親が、自分を肩車に乗せて、食うだけ食えと桃畑の中を歩き廻ってくれた時分の自分等は、どんなに幸福に、嬉しいお天道様を拝んでいたことかと思うと、飛んでも行きたいほどのなつかしさを覚えた。
それだのにこの広い世の中に、たった二人きりの母子《おやこ》でありながら、この頃のように訳も分らないことで、情ない行き違いをしていなければならないのを思い、自分のもうとうてい癒りそうにない病気を思うと、ほんとうに生きている甲斐もなくなったように感じられた。
自分がいておっかあの邪魔になるなら、今すぐからでもどこかへ行ってもしまうけれど、どうせは死ぬのも近いうちのことだろうのに、どうぞたった一度で好いから七年前に呼んでくれたように「新や!」と云ってくれたら、どんなに嬉しかろう!
新さんは、北海道で時蔵という男の所にいたとき、仲間の男で十九になるのが急に病《わずら》いついて、たった三日で死んだときの様子を、マザマザと思い出した。
その男は死ぬ日まで、
「阿母《おっか》さん! 阿母さん、何故来ないんだ? 俺りゃ待ってるんだぜ」
と云いながら、生れてから別れるまで、ついぞ大きな声さえ出したことのないほど優しい母親のことばっかり話していた。そして、もういよいよというときに、一度|瞑《つぶ》っていた眼を大きくあけて、両手を一杯に延ばすと、
「阿母《おっか》さん!」
とはっきり叫んで、そのまんまとうとう駄目になってしまったときの、あの鋭い声、あの痩せた手が新さんの目について離れなかった。
どこの山中、野の端に野たれ死をしても、いまわの際に「おっかあ!」と呼んで死ねる者は、何という幸福なことか。新さんは、真面目に自分の死ということを考えていたのである。
或る殊に暑苦しい日、朝から新さんは身動きもできないほど弱っていた。
五月蠅《うるさ》い蠅を追いながら、曇った目であてどもなく、高く高くはてもなく拡がった空を見ていると、どこからか飛び込んで来たように、自分はもう生きていられない身だということを確かにハッキリと感じた。
新さんは、妙に笑いながら、ムズムズと体を動かして顔を撫で廻しながら、
「おっかあー!」
とやさしい声で呼んだ。
裏口の水音がやんで、濡手のままおふくろは仏頂面《ぶっちょうづら》をして、
「何だあ?」
と入って来た。
「いそがしかっぺえがちょっくら坐って、話してえがんけえ? 俺れえ話しときてえことがあるんだがなあ」
「何だ? 早く云ったらええでねえけえ」
「ま、ちょっとお坐りて。
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