ると、いきなり体をねじ向けて、大きな足音を立てながら、畑地の方へ逃げて行ってしまったのである。
 これを見た私は思わず微笑した。せっかく落した果を皆そのまんま残して、自分の声に嚇かされて逃げて行った彼を見て、怒ることは出来ない。どこの子だか知らないけれども、息を弾《はず》ませて家へ帰りついたとき、彼に遺っているものとては、果物の雨を身に浴びたときの嬉しさとその後のたまらないこわさだけであろう。
 愛すべき冒険者よ! よくおやすみ。あしたもお天気は好かろうよ。
 けれども、彼もまた私に辛い思いをさせる畑荒しの一人だというのは、何という厭なことなのだろう。

        十一

 或る日突然私は桶屋から、金の無心をかけられた。彼は、今までもあまり貧乏なので、祖母からいろいろ面倒を見てもらっていたのだけれども、病人の娘を気味悪がって、家へはあまり近づけられないでいたのである。
 アルコール中毒のようになっているので、手はいつでも震え顔中の筋肉が皆、顎の方へ流れて来たような表情をしている。
 酔うと気が大きくなって、殿様にでもなったように騒ぐけれども、白面《しらふ》のときはまるで馬鹿のように、意気地がなくなって、自分より二十近く年下の後妻に、おとなしく使われているので、皆の物笑いになっている。
 その彼が、祖母が墓参に行った留守へ来たのである。
 大の男がたった五円の金を貰おうとして、幾度お辞儀をし、哀れみを乞うたことか!
 彼は、命にかけてお願いするとか、御恩は一生忘れないとか、それはそれは歯の浮くように人を持ちあげた口吻で、
「お嬢様のおためにゃあ火水も厭いましねえ、はい、そりゃほんのことでござりやす」
と繰返し繰返し云った。
 生れて初めて直接に金を借りようとする者の、極端に己れを低めた言葉態度を見た私は、妙な極り悪さと、自分自身の滑稽らしさとに苦しめられたのである。
 愚にもつかない讃辞を呈せられたり、おだてられたりするのを、別にどうしようでもなく、どうしよう力もなく、聞いてすました様子をしている、こんな小っぽけな一文なしの私は、それを知っていて見たらどんなにみっともなくもまた、馬鹿らしく見えたことであろう。私は、前からよく女中に、私共の遺[#「遺」はママ]っている食物なども、大抵は彼等夫婦で食べてしまって、肝腎の病人には届かないときが多いということを聞いていたので、どんなにしてやったところで、また飲まれてしまうのが落ちだという気がした。
 それに、何に五円要るのだかと云っても、はっきり訳も云わないので、益々私の疑は深くなった。で、私は自分の金は一文も持っていない米喰虫なのだから、今直ぐどうして遣ることも出来ないと断ったのであった。
 けれども、彼の方では、まだお世辞が利かないせいだとでも思ったと見えて、思わず笑い出すほど、下らないことまで大げさに有難がったり、びっくりしたりして喋り立てるので、私はもう真面目に聞いていられなくなった。
 私は、笑って笑って笑い抜いてしまったので、彼も何ぼ何でも自分の口から出まかせに気が付いたと見えて、ニヤニヤ要領を得ない笑いを洩して、うやむやのうちに喋り損をして帰って行ってしまった。
 このことは、初めから終りまで馬鹿馬鹿しさで一貫してはいるが、彼が今無ければどうなるというほどでもない金を「若しあわよくば」というような下心で「せびって見た」というような様子に気が付くと、ただの笑いごとではなかった。
 若しも、私が出してやりでもしようなら、誰も彼もが皆|体《てい》の好い騙《かた》りになってしまいそうだ。
 私のすることが、皆あまり嬉しくない結果ばかり生むのが、益々辛くなって来たのである。
 とにかく、これ等のことがあるようになってからは、私の囲りには、だんだん沢山「得なければならない」者共が集って来た。
 小さい娘の見る狭い世界から抜けていることの、不利益を知るほどの者は、何か口実を設けては訪ねて来るのである。
 ただ雌というだけのようになった女房共の、騒々しい追従笑いや世辞。
 裸足《はだし》で戸外を馳け廻っていた子供の、泥だらけな体が家中をころがり廻る騒ぎ。
 それ等の、何の秩序も拘束もない乱雑には、単に私の毎日をごみごみした落付のないようにしたばかりでなく、家全体をまるで田舎のよく流行《はや》る呪禁所《まじないどころ》のようにしてしまった。
 祖母やその他家族の不平は、私一人に被さって、子供が炉へ水をひっくり返したのも、下らない愚痴を、朝から聞かされなければならないことも皆私がこんなだからだと云われなければならなかった。
 このようなうちにありながらも、私は出来るだけ彼等に好意を持ち続けようと努めた。
 けれども、いそがしい仕事のあるとき、彼等の仲間になって聞き飽きた、その当人よりよく
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