ほんに俺《おい》ら話してえことがうんとある」
 新さんは穏やかな愛情に満ちた眼差しで、まじまじと怒ったようなおふくろの顔をながめた。そして、静かに微笑して頭を動かした。
「なあ、おっかあ! 俺《お》らおめえに相談しとかにゃなんねえと思うことがあるんだが……」
「…………」
「急にこげえなことー云うと、おっかあ気い悪くすっかもしんねえが、俺らもうとうてい助からねえと思ってる。そんで、早く家の仕事うちゃんとするもんを定めときね、誰でもええ。おめえのええと思う者を定めたがええと俺ら思ってる」
 おふくろは妙な顔をしたが、いきなり大きな声で怒鳴った。
「なにいあてこすり云ってけつかる! よけいなこと世話焼かねえですっこんでろ、馬鹿奴! 俺らに貴様の心ん中が分んねえと思うんか?」
「まあ、そげえに怒んなよ、おっかあ! 俺らあてこすりでも何でもねえ、ただ思ってること云ったんだ。……俺ら、北海道さ行《え》がねえ前のことを思うと、ほんに今が辛え。俺ら何んでもおっかあにつくそうと思ってんだ。どんなこってもええ、おめえの思ってんことーすっかり俺れに打ちあけてくんねえか! なあ、おっかあ、俺らはもうどんほども生きらんねえ、そいつが願《ねがい》んだ。昔を思い出してくれねえか?」
「なにい嚇してけつかんだ! 駄目だえ。だまそうたてだまされるもんけ。面《つら》でも洗って出なおせッちゃ」
「そうじゃねえよ、おっかあ! 俺らどうしようにもこの体で出来ねえな分ってんでねえけ。ただ俺ら皆分って死にてえ。どうぞ昔のおっかあと俺で別れてえ、なあおっかあ? こん間《ねえだ》の豆のことだて、俺らにゃどうしても腑に落ちねえ」
「腑に落ちねえがどうしただ? 俺らおめえの云うこたあ分んねえよ。馬鹿! おふくろー悪者にしようとすんーような奴ー持った俺れが因果よ。面白くもねえ。何とでも云えよ。俺れえ一人悪者になってりゃおめえは嬉しかっぺえなあ、おい! 嬉しかっぺえよ」
と神経的に涙をこぼし始めた。
 新さんは情ない顔をして、黙ってこの様子を見ていたが、やがて蒲団の下から胴巻を出すと、
「おっかあ! もうちんとばっかしだが、こりょおめえに預けとく。どうぞそんで埋めとくれ。俺ら持ってても何の益《やく》にも立たねえかんな」
と、母親の膝元に押しつけた。
 おふくろは、ちょっと目を輝かせた。そして少し間が悪そうに、
「そうかあ」
と、云いながら早速これを持って、立って満足げに行く様子を見送ると新さんは、嬉しそうに微笑して目を瞑った。
「おっかあ! おめえも決して悪《われ》え人じゃねえ。が、俺ら辛えや。昔のことー思い出すのが辛えや、なあおっかあ! 俺ら何ちゅう睦まじいこったったろうなあ」
 新さんの眼からは、滝のような涙がこぼれた。押し切ったような苦しい啜り泣きの声が、静かな部屋に悲しく響き渡ったのである。

        十七

 都会から遠く逃れた、名も知られない一小村落に起るいろいろの事件を包含して、秋は去年と同様に、また百年前と同じように育って来た。
 山並みや木々の葉に明かになって来た秋の気候と、まだどこやらに残っている夏の余力がともすれば衝突して、この二三日の天候は非常に悪かった。
 広い空一面に雨雲が漂って、不愉快な湿気が南風の生暖かい吹き廻しと、垂れ下った雲の下で縺れ合っている。遮られがちな太陽《ひ》の光りは、層雲の鈍色《にびいろ》のかたまりに金色の縁取りをし、山並みを暗紫色に立木や家屋などの影を調《ととの》わない形にくっきりと、乾いた地面に印している。
 山から斜に這う風が、パーッと砂煙を舞いのぼせると、実の重い作物が、ザワザワ……ザワ……と陰鬱な音を立ててうねり渡る。雲の絶間から眺められる暗藍色の空からは、折々細い稲妻が閃いて、奥深い所で低い雷がドドドドドドと轟いた。総ては物凄い様子で明けて暮れている。
 その日は特《こと》に険しい天気で、夕方になってからは、恐ろしい風が吹き出したので、百姓達は皆非常な不安に攻められた。今最後の発育を遂げようとしている総ての作物が、荒い風に会い、強雨にたたかれるということは憂うべきことである。
 で、彼等は田の見廻りや何かにせわしく、私共の畑も三人の小作男で、十分に囲われたり突支《つっか》い棒をあてがわれたりした。
 早くから閉め切った部屋の中にとじ籠って、次第に吹き荒れて行く戸外の雨の音を聞いていると、私共は皆何だか気味悪くて離れ離れめいめいの部屋に落着いていられないような気持になった。
 家中は皆茶の間に集った。
 雨戸にガタガタぶつかっては外《そ》れて行く風の音、どこかの軋むキーキーいう響に交って、おびえたような野犬の遠吠えが陰気に凄く皆の心をおびやかして、千切れて飛んで行った。
 風は次第に強くなって来る。薄ら明りの空を走る雲
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