っている。それらの批評は、どれも好意的である。それは自然なことだと思う。この『春を待つ心』に対して、誰しも、やさしくされた心でしか物は云えない。
子供のままのこころと云っても十七八歳になった少女として、故郷を離れ、療養所の集団的な生活の中に「お母さん」や姉さんたち「お父さん」をもって暮している松山くにの胸の中には、やはり、十二の子供にはない思いが去来している。「お母さんの入室」「かいせん焼」「碁」「月蝕」「草履つくり」「着物のがら」「一本松」「目」「鼻」「悪口」「闇取引き」「散歩」などじっくりよむと、文章をあふれて深くせまって来る情景や生の思いがある。
ほとんど同時に、やはり国立癩療養所である多磨全生園の文芸協会が編輯した『癩者の魂』も出版されている。これは、大人の作品であり『春を待つ心』とは全然ちがう。『春を待つ心』が大人にならない少女の心によって自然の日が照るように自然の雨が降るように書かれた文章とすれば『癩者の魂』はおとなの文学作品という意識によって筋をたてられ、描写され、まとめられている作品である。読者は、それらの作品が、現代ジャーナリズムに氾濫している読みもの風な小説の影響をあまり多くうけていることについて、何かの感想を与えられはしないだろうか。限られた生活環境で、これらの人々の受動的にならざるを得ない読者の性質ということをまじめに考えさせられる。
われわれが、こういう特殊な性格の本をよみ、その批評をする場合、そういうことをするほんとうの意義というものは、どこにあるのだろう。『春を待つ心』のまえがきで、星塚敬愛園長の塩沼氏が「園内の子供たち[#「園内の子供たち」に傍点]」もどんなにこの本が世に出ることをよろこんでいるかしれないと言われている。この「園内の子供たち」という言葉は、訴えにみちている。『癩者の魂』のそれぞれの作品がほとんどペンネームで発表されているところにも、これらの人々の生の深い思いがある。
このような本が出版されることそのことが一つの社会的なアッピールではないだろうか。そして、これらの本を書評にとりあげることの本質には、これらの人々の切実な生のよび声を、わたしたちの社会連帯の感覚のうちによりひろく伝える義務がふくまれていると感じる。健康な人間が健康な人間を殺戮するために科学の精髄をつくして研究している、その莫大なエネルギーと費用の幾分
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