物を始末すると、志野は一寸髪をかきあげ、
「どれ」
と、前かけをしめかけた。
「どうも有難う、手伝うわ」
「いいの、今日は――今日は引越し祝にあなたお客にしてあげるわ」
「ほんと? すてきすてき! せいぜい御馳走してよ。じゃあ私ここでただ喋くっているからね」
志野は、白キャラコの前かけを丸めてむこうに放ぽり出し、机の前に坐った。房は、窓じきり越しに露台の台所に。暫く森《しん》とした。塵埃のレースを張った硝子の方から、夕暮のどよめきが聞えた。若葉のつきかけた街路樹の梢と、まだ光の薄い広告燈の煌も見える。
「ね、一寸お志野さん、こんなものどこへ捨てるの」
志野は、急に夢でも醒されたような声で訊きかえした。
「え?」
「ごみすてはどこなの」
「そやっといて頂戴、夜んなったら下へ持ってくから……」
彼女の顔を見ず、言葉つきだけかげで聴くと、房は、疲れが分って気の毒な心持になった。志野は、電話局の事務員であった。
仕度が出来ると、房は一閑張の机を電燈の下へ持ち出した。
「――すっかり本式なのね」
「だって――じゃあどうしてたの? 今迄――」
「面倒くさいからここんところですましちゃうのよ」
「今夜は、もっと本式よ」
房は、悪戯《いたずら》らしくにこにこしながら、わざと隠して置いたアネモネの花を運んで来た。
「どう? わるくないでしょ? これをここんところに飾ってさ」
彼女は、卓子の横に赤いアネモネをさした硝子花瓶を置くと、直ぐとってかえして、両手に西洋皿を持って入って来た。
「これを、こうっと、ね?」
「まあ! ステイキ?」
志野は、房のすることを、少しびっくりしたように眺めていたが、美味そうに粉をふいた馬鈴薯まで添えてあるビーフステイクを見ると、始めて本気な興味を示して感歎した。
「あなたったら――とてもハイカラになっちゃったのね。須田さんて、そんなハイカラな家だったの?」
「そんなことないけど……」
房は、働いたのと、友達を望み通り楽しく不意打に成功した満足とで、元気よく挙動した。
「さあ、たべない?」
志野は、清汁の味を賞め、肉の焙《や》き方が上手だと云って、亢奮し、食べ始めたが、半膳も進まないうち、どうしたのか不意に箸を置いてしまった。房は、愕《おどろ》いて自分もやめた。
「どうして――何かあった?」
見ると、志野はまるで上気《のぼ》せ、今にも泣き出しそうになって自分を見つめている。房は、あわてて傍にすり寄った。
「どうしたのよ! 本当に」
「何でもないの、――何だか私――」
無理に笑おうと努め、やっと早口に、
「変に悲しくなっちゃった!」
と云うや否や、志野はいきなり両方の眼からポロポロ涙をこぼした。涙をこぼしながら、彼女は片端からそれを拭き、極り悪そうに微笑んだ。
「御免なさい、本当に私何だか急に胸が一杯んなっちゃったのよ――こんなにして御飯がたべられるなんて――一人で暮すの全く厭よ、お浸しがたべたいと思って小松菜買うでしょう? どんなに小束買ったって一度で食べ切れないから、翌日もまたその翌日も小松菜ばっかり食べていなけりゃならないんだもの――しまいには腹が立って蹴っとばしてやりたくなるわよ」
しんみりし、陽気になりしつつ彼女らは食事を終った。二人はそれから散歩に出た。寝しなに、志野が、
「ああ、あなたお隣の人見た?」
と訊いた。
「いいえ――いたの? 昼間も」
「うん、この頃いるの――カフェーなんぞへ出てる女だから、あなたあんまり深くつき合わない方がいいかも知れないわ」
房は、単純に、
「そうお」
と答えた。
二
二十日ばかり前のことであった。
或る晩、房は医者に行った。一ヵ月程以前から彼女は健康が冬じゅうのようでないのを感じていた。去年の秋、須田の家へ仲働きとして入って以来、何ともなかったのに、時候が暖かくなるにつれ、却《かえっ》て工合が悪かった。客があり、二階へ往復の劇しかった夜など、四肢の怠《だ》るさと、亢奮とで、気持わるく体をほてらせたまま一睡も出来ないことがあった。二年前に、彼女は肋膜を煩って、久しく床についた経験があった。それを思い出し、主婦にも勧められ、医者へ出かけたのであった。彼女の杞憂したようなことは診察の結果ないことが明かになった。ただ、休養が絶対に必要ということであった。
「今のうち悠くり二三ヵ月も保養をすれば決して心配なことはないね。けれども、このまま働きつづけちゃあ迚も堪るまい――奥さんには私からもよく話して上げよう。ま、当分家へでも行って、たっぷりお母さんに甘えて来るこったね」
房は、ぼんやり考えこみながら、夜店の並んだ通りを歩いて来た。春先に珍しく風のない、空の美しい夜であった。彼女は、角の化粧品屋へよってピンを買った。リボンや、帯留、半衿な
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