んじまってよ」
「お暇いただいて、呑気に養生するわ」
 志野は、顔をしかめるようにして尋ねた。
「養生するって――どうするのあなた、今の家やめたら……困るでしょう」
「三月や四月遊ぶ位のことは出来るのよ」
 二人は、それぎり黙って、房の土産のバナナを食べた。突然、志野が弾んで天井にぶつかりそうな調子で云った。
「いいことがあるわ! あなた、ここへ来るのいや?」
 房は、とっさ、返事に窮した。
「そりゃ、家は随分穢いけど、呑気は呑気よ、なまじっか、素人家にいるよりよくてよ。室だってちゃんと一つ一つ区切れてるから。――私は、どうせ昼間一杯留守なんだから、あなたの好き自由だし――あなただっていきなり知りもしないところで間借りしたって、きっと淋しくって仕様がないに定ってるわ」
 それは、図星であった。房は、勝気だが神経質で、貸間の女主などが、勤めにも出ず、あまり金持とも見えない弱そうな自分をどんなに観察するか、それを想うと、実際躊躇していたのだ。
「それに第一、一人で暮すよりどんなにか経済よ」
 志野は、打明けた、飾りない言葉で話した。
「私だって、まるで助かっちゃうわ――局の月給なんて、たった、あなた二十八円よ、室代を十四円とられて御覧なさい、やって行けたものじゃあなくてよ。だから、お裁縫なんかするんだけど――一日根からして働いて来て、また肩を凝らす程やって見たって、ね……若し、あなたさえいやでなかったら本当に来ない? 室代半分助かるわよ、お互に……」
 房は、その晩は不決断のまま帰宅した。二三度、縫物を持って往来するうちに、次第に第一印象の暗さが薄らいで来た。却て便利らしい点が残った。須田の子供達にもなつき、ミシンの稽古をさせて貰っていた房は、一時の休養のために、まるきり暇をとりきるのは不本意であった。四五町の場所に室を持ち、気分でもよくなったら運動がてら、中の男の子を迎え位する――ゆとりと、変化も相当ある快い生活法ではあるまいか。
 房は、楽しみをもって引移った。

        三

 初めての日曜日、風の烈しく吹き捲る晴れた日であった。
 房は、一吹き荒れる毎にどーっと塵埃を吹きつけ、ガタガタ鳴る露台の硝子の面を靄でもかかるように曇らして行く風勢を眺めていた。
「――こんな風――私始めてだわ」
「ここは特別なのよ何故だか」
 志野は、伊達巻だけしめた上に羽織を着、下から借りて来た時事漫画を腹這いになって見ながら答えた。
「折角日曜だっていうのに、これじゃあ外へ出ることも出来やしない」
 穢い硝子、穢い建物に、バッと日が明るく差し込むだけ余計塵っぽく、悩ましい。房は、隅っこの壁によりかかって、編物を始めた。腹這のまま、頬杖をついて今度はその手元を見守っていた志野が、やや暫くして訊いた。
「何編み?――それ」
「さあ、なんていうんだろ、知らないわ名は。外国雑誌から教えて下すったのよ」
「……何が出来るの」
「お嬢様のスウェター」
 眺め飽きると、志野は手を延し、脇の小棚から懐中鏡をとり出した。鏡を開いて片手に持ち、片方の指で頻りに鼻毛を抜き出した。円いくくれた顎をつき出し、一心に目を据えてぐっと引張るが、なかなか抜けて来ない。気合をこめて引張っては擽ったそうな顔をする。房が到頭ふき出した。
「何よ、それは――はっはっはっ」
 つられて、志野も笑い出した。
「――だけれど、あなたみたいに装《なり》ふりかまわないひとはなくてよ――学校にいた時分からそんな髪だったじゃないの」
「そうね」
「もう少し何とかすればいいのにさ。十八九の時分と、二十過ても同じじゃ余り可哀そうよ」
 やがて志野は、
「どれ、一寸私にいじらせて御覧なさい」
と、気軽に房の後に廻った。彼女は、器用に、長い、たっぷりした髪を梳き始めた。
「こんなにあるのに――私なら素敵な髪に結って見せるわ――髪の形で喫驚《びっくり》する程ひとって変るもんよ」
 自分の毛筋立てや鬢かき迄持ち出し、志野は自分が結っているような洋髪に結い始めた。
「さ、これ持ってて」
 彼女は、房に鏡を持たせた。一ところへ形をつけては、
「どう?」
と背後から顔を重ねて自分も鏡を覗きこんだ。
「いいじゃあないの、すっかり可愛くなっちゃうわ」
 房は、好奇心の動く、一方、極りの悪そうな表情で云った。
「私の髪、どっさりあったって強《こわ》いから駄目よ、こんなの」
「結いつけないから、そりゃいきなり理想的には行かなくてよ。――まあ黙って見ていらっしゃい」
 出来上るにつれ、房は大きい髪を持てあました。
「本当にいやあよ、私。私じゃあない人間みたいだわよ、これじゃ」
「どれ」
 志野は、素ばしこく前に廻って検査した。
「そんなことあるもんですか! トテ、シャンになったわよ」
 遊んでいると、階段を登って来る
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