いたのだろうか。
六時頃、志野が帰って来た。
「ああひどいひどい。御覧なさい、この通り――自動車の泥よけなんて何にもなりゃしないわ」
はねの上った紺絣の合羽を、露台へ乾しに出ようとし、彼女はふと机の上にのっている半紙包に目をつけた。
「あら――」
志野は、睨むような流眄《ながしめ》で房を視た。
「あなた、お隣へ行ったの?」
「ええ」
「面白かった?――あの人んとこ、いつでもこのお菓子よ」
蹲んで、志野は、蚕絹糸でくるんだような四角い、小さいキャンデーを口に入れた。気にかけまいと努め、終にやりきれなくなった風で、彼女は、曖昧な、どうでも変化させられる薄笑いを泛べながら訊いた。
「――珍聞があった?――……私の噂してたでしょう」
房は、穏に、真面目に云った。
「いろんなこと聞いたわ」
「…………」
志野は、黙って顔を見ていたが急に房の手をつかんで自分の方へ引ぱった。
「ね、あなた私信じてくれるでしょ? ね?」
「信じるって――噂なの? あの人の云ったことみんな――あなたが変にかくしだてしたから、私却って何だか……」
「だって――云えないんですものそんなこと、恰好が悪くて。……あなた、憤っちゃった? もう私みたいな女と暮すのなんかいや?」
房は、いじらしいような、自分迄切ないような気持がした。
「そんなことありゃしなくってよ――謂わば、一つの不仕合みたいなものだったんじゃあないの」
「――あなたほんとにそう思っててくれる?」
志野は、感動で涙ぐんだ顔付になった。
「――あなたさえそう思ってくれれば、私全く有難いわ。――心配してたんですもの」
そして、見る者の心も動かす嬉しそうな笑顔で云った。
「ああ私さばさばしちゃった!」
対手の心持の判った安心と、何も隠すに及ばなくなった安心とで、志野は一時に当時の辛さを打ちあけ始めた。
「――実際あの気持――とても口で云えないわ。その男――今泉っての――お邸を出てから、私が悠くり寝ていられる二階を紅梅町へ借りたって云うんでしょ、私だって、まさか嘘だと思いやしないわ、わざわざ出かけて行って探したの探さないのって……いくら歩いて見たって、飯村なんて家ないから、やっと交番を見つけて訊くと、東か西かっての。町が東と西とになっていたのよ、その紅梅町っての! いいえ、ただ紅梅町だけですって云うと、巡査ったら、ニヤニヤ笑うのよ、
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