とけあうことの出来ないものとしてのこされた決定的な点が、この時代に芽立った。
 ヨーロッパ大戦が終る年父につれられて私はアメリカへ行き、ニューヨークに一年いる間に、無一文の言語学をやるひとと結婚した。
 この結婚は当時新聞が、百合子はアメリカにごろついていた洗濯屋と夫婦になったなどと書いたりしたことがあり、両親は勿論賛成せず、特に母はそのために眠られない幾夜かを過したのであった。母は、いくらか世間に名を知られるようになった娘をこの際洋行させたら、もっと偉いものになるだろうと考え、母らしい英断で、家に金もないところを、現在住んでいた家を抵当として金をつくり、それで私をやったのであった。
 娘はそんなこととは知らなかった。母の考えているところは感じられて、それに反撥しながら、今度こそ独りになって、自分のまわりに執念ぶかく結わかれている柵を二度と結い直しのきかない程にふっ飛ばそう。こんどこそ生きたいように生きるのだと、勇躍して、じかに生活へとび込む希望と好奇心に満ち溢れて、太平洋を渡ったのであった。
 妙な結婚なんぞして、母の絶大な幻滅の前へ二十一歳の私は確信ありげな顔つきで帰って来たのであった。結婚した人と母の気質も到って不調和で、母が遂に家から出て行けと業を煮やしたのも、今日になってみれば無理ないことであったと思う。
 子供時代からの本箱と敷いていた木綿の夜具だけをもって、私は両親の家を出た。
 母は、父に向っても、娘に向っても、自分のうけた打撃はきびしく復さずには居れないたちで、又それをやった激しい気質の女性であるが、それは日常的な家庭生活の内でのことで、世間に向ってものを云う場合になると、その母でもやっぱり従来のありきたりの型に興味ある自分の性格をちぢこめ、あてはめて、娘や息子の愛のためには身をすてる女のように自身を語るのであった。そしてそう話しているときの自分の心には、偽りはなかったのであったろう。借金をしてまでの大望が娘によって裏切られた落胆についても、母はそれを率直にありのままは話さず、娘の大成のためには金銭をおしまず、堅忍をもって耐える母という風に道徳化して語った。それが又私の心に体の震えるような憎悪を呼び起すのであった。そういう矛盾は母の真情に対する同感をすっかり抱かせなくした。
 母と私との生活が別々な軌道を持つようになってからは、母の文学的興味も一時下火となった。そのかわりに日本画の稽古がはじめられた。
 その時分になれば、家の経済状態も少しはましになって来ていたのであったろう。私がたまに遊びに行くと、母は、葡萄や牡丹の墨絵を見せ、毛氈を敷いて稽古している二階の風通しのいい座敷へ呼ぶことなどもあった。ところが暫くで絵の稽古も中止になった。もう糖尿病になっていたので、下を向いていることは歯齦を充血させて体力が持たなかった。そのほか、後できくと、その絵の師匠は、絵筆をとっている合間に、家をたててくれなどと云い出したので、母は警戒して絵の稽古もやめてしまったのであった。
 そのことは、日本画家の一種の紊風を示す話でもあり、又母が実際家であって、利害を守るにも鋭く、そういう点でも断乎としていたことをも示す面白い話だが、当時母はそんな事情はちっとも云わなかった。ただ、あの何とかさんの筆は死んでるからおやめだ。私の絵の方がよっぽど活きているよ。など話した。文学の仕事から推し母の絵の修業にも関心をもっていた私は、母の云う筆勢なるものにいくらか不安も持ったりした。文学作品で云えばメロドラマティックな誇張に陥るのではないかと、母の筆勢論には消極なうけこたえしか出来なかった。
 この前後(一九二四・五年)から、子供らは、私が見ていたように、そして手伝ったように、自分で洗濯をし、縫物をし、台所で夕飯のおかずをこしらえるために立ち働いている母を見ることが全く無いようになった。
 母は父との間に九人の子を持った。そのうち六人を死なせ、肉体と心との疲労はひどかったが、特に一九二八年八月、東京高等学校三年生であった弟が計画的な方法で自殺してから、母の生活はよそめには一種異常なものとなったのであった。
 その前年の秋から、私は外国へ出かけ、弟の死はレーニングラードで知った。弟が自殺したこまかい理由は今もって具体的に分ってはいないけれど、その前後の時代の高等学校の学生であった二十一歳の青年の精神的苦悩から、弟はその前、三月にガスで一度死のうとしていたところを、父に発見されたことがあった。その三月の時、日頃彼を熱愛していた母は、最愛の息子が自殺して苦悶から逃げようとした態度を激励的に叱責するよりも先に、その純情と苦悶とに自分がうたれ、感傷し、感情の上で弟にまきこまれた。五ヵ月後、彼が遂に死んだ時も、母はこの濁世に生きるには余り清純であった息子の霊
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