ことでは不満を洩らしていた。
美術学校の方はそういう工合で駄目だし、ロンドンにいた父が留守中に妻が洋画の稽古をはじめることを賛成しないのは、母が若いのに、教師が男だからというのが真実の理由だと理解していた母は、女に対しては、そんな片手おちを強いるものの考えかたに対して、一種の憤懣を抱いていたことも察しられる。
当時、又、どうしたわけだったのか祖母が父の留守中に母を離別させてしまおうとして、伯父をつついて書かしてやった手紙がロンドンから父の手紙の中に封入されて母の手許に渡ったようなこともあり、普通の留守を守るというより遙に複雑な関係が母をかこんでいたのであった。
父は明治四十一年、日露戦争が日本の勝利によって終って間もなく帰って来た。その時分の洋行がえりは今では想像も出来ないほどハイカラなものであった。父もそのようにハイカラになって帰って来たのだが、母との間には、過去五年間のまるでかけはなれた生活の条件から来た感情のぴったりしないところがあった。母は父のハイカラぶりをどちらかと云えば単純に只その間に経た自身の辛苦と思い合わせて辛辣に見たらしく、それから数年の間、父と母との明暮にはひどく衝突するような場合もふえて、本能的に父の側に立つ九つの娘に向って母は「お前はお父様の子だ。お父様と一緒にどこへでもお行き!」と涙をこぼしながら叫んだりした。
そのように激しく衝突しながらも、父が役所勤めをやめて建築事務所をはじめたときには全力的に果敢にそれをたすけ、その多忙な年々に、幾人もの弟と妹とが生まれて行ったのであった。
私がいつとはなし文学に興味を持っていることに気がついてから、自然に母も自分の生活の一部に文学趣味を復活させて、トルストイの作品などは愛好して読んだ。私のはじめての小説が発表されてから、母は、自分の満たされなかったいい意味での好学慾と、わるい傾向としての学問的世間的虚栄心とをごったまぜして、情熱的に私に集注しはじめた。母は雑誌社や新聞社との必要な交渉は自分が一番心得ているように思いこんで、娘である私に向っては、何が娘の芸術を育てる根源的なものであるかはわからず、恋愛もしなければ、失敗もしなければ、ただいい作品だけを書いて行く特殊な存在のような扱いをしはじめた。これは本当に私を恐怖させた。
五十九歳で母がその生涯を終る最後のときまで、母と私との間に真から
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