という風になって来た。

 母という一人の女性の生涯は、娘である私のほかの人たちの心にどんな印象を与えていたのだろうか。私はそれをひどく知りたいと思う。
 この気持は母の通夜をする時からあった。何か耳新しい一つ話か思い出話が出るかと思って、心臓に氷嚢をあてながらも寝ないで柱にもたれ、明け方までいろいろな人に混っていたのであったが、誰もそんな話を切り出すひとは誰もなかった。母が二十代の時分、生れたての私をつれて札幌へ父とともに行って暮したことがある。その当時東京からついて行ってずっとそっちにいた間暮した女がその夜も来ていたが、そういう昔馴染でさえ、あああの時はどうだった、この時はこうであったというような話はしないで、大きい青桐の葉に深夜の電燈が煌々と輝やいている二階の手摺のそばで、団扇を胸元で低くつかいながら、思い出したようにまわりの者に小声で茶菓などすすめている。
 その有様には、母の特徴があらわれていると感じられた。誰にしてもひとくちで母の印象を語ることは出来にくいのだろう。褒めるというのもわざとらしいし、ましてそういう場合、ああされたことは今も忘られないとは云えないし、普通のひとの心持では一寸云うべき言葉がないのだろうとも推察された。
 母は、晩年特に著しくなった矛盾をいっぱい持って、それを極めて率直に、世間知らずにのばしきり、自身の嘘や誇張をも知らず、自分の生活ぶりがはたの者にどんなに影響しているかということにも気づかず、一家の真中に坐をしめて生きた女性なのであった。
 母の生れた西村という家は佐倉の堀田家の藩士で、決して豊かな家柄ではなかったらしい。しかし葭江と呼ばれた総領娘である母の娘盛りの頃は、その父が官吏として相当な地位にいたために、おやつ[#「おやつ」に傍点]には焼きいもをたべながら、華族女学校へは向島から俥で通わせられるという風な生活であった。嫁いで来た中條も貧乏な米沢の士族で、ここは大姑、舅姑、小姑二人とかかり人との揃った大家内であったし、舅はもうその頃中風で、世間なれない二十二の花嫁としては大姑、姑たちの、こまかくつけまわす視線だけでもなかなか辛い思いをしたらしい。その時分の思い出は私が十七八になってから折にふれてはよく母も話した。結婚したのは父が帝大の工科を出る年で、余り年より達がうるさいと、だから貴女がたのいる間は僕は嫁なんぞ貰わないと云っ
前へ 次へ
全9ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング