るように感じた。才能のない、どこか足りなくはないかとさえ思われる太田は、失業で焦れば焦るほど××が巨大な資本の力で、儲けるのを見て来た癖で可能性のない儲妄想にかかっている。
「――義兄さん、退社手当随分どっさりおもらいんなったでしょう? みんな事業へつぎ込み?」
 すると、太田の無表情な剃あとの青い顔に何とも云えない頑固な気色が浮んだ。
「――実はそのことじゃあ僕清水を怨んでるんです」
 清水とは太田の従兄で、ボール・ベアリングの共同投資人なのだ。
 ミサ子の驚いたことには、こういう話の間姉の文子がまるで無頓着なことだ。長火鉢のわきに縫い直しものをひろげながら、夫と妹とを勝手に話させ、自分は仲間に入って来ようとも、理解しようともしない。
 何も彼もウヤムヤで、ミサ子は十一時頃帰りかけた。姉が男下駄をつっかけて門をしめかたがたついて来た。
「じゃ、さっきの話、考えといて下さいね」
「考えとくわ。……でも、姉さん」ミサ子は、我知らず姉の手を押えるようにして云った。「本当に義兄さんには気をつけなくちゃ駄目よ! あんなインチキ事業ばっかり追っかけてたら、それこそ今にドタン場だわよ」
 文子はどこまでも受けみに手をとられたまま心配そうに、だが矢張りことの本質はちっとも分っていない風で弱々しく答えた。
「私だってそりゃ気が気じゃないんだけれどねエ……」

        三

 主任の机はがら空きで、やって来ている連中も、執務姿にはなっているが或る者は廻転椅子をテーブルとは逆な方へ向けて新聞をひろげている。
 私用らしい手紙を書いている者もある。
 ミサ子は、タイプライタアの仕度をしておいて、膝の上へ婦人雑誌をひろげ読んでいた。
 柳が発起して××○○会社に働いてる女事務員の一部が雑誌購読会をもっていた。一冊分の会費を払えば順ぐりいろんな雑誌がよめるのでみんなによろこばれている。
 不図《ふと》ミサ子は思い出した。××商事につとめている順子と左翼劇場へ行く日をうち合わせるのは今日の約束だった。
 ミサ子はエレベエタアで地階まで降り、電話で順子を呼び出した。
「もしもし、今どう?」
「直ぐならいいわ、いらっしゃいよ」
 疾走する自動車が都会の風をまき起す。ミサ子は翻える臙脂《えんじ》色の裾を押え、ひろい、街路樹の植わった東京駅前の通りをつっきった。
 すぐ前の舗道に沿って並んでいる幾台もの自動車のボディーはキラキラ日に照っているが、××商事の豪壮な石造の入口の奥は暗くひんやりして見える。
 何段もの石段を小走りに登って、ミサ子は詰襟の受付に順子への面会を求めた。
 左手に長い廊下がつづいている。そこに、後から光線をあびて順子の姿が黒く現れた。下を向いて何か紙片れのようなものを見ながらゆっくりやって来る。
 ミサ子は執務時間中に来ているのだ。気がせく。
「ちょっと!」
 声を殺してせいたが、勿論順子には聞えない。紙片れを事務服のポケットへしまったのを見すましてミサ子は、両手をゲンコにし、ランニングの恰好を真似して体の前で動かして見せた。順子は、遠くから首を曲げ、
「なあに?」
という思い入れだ。早くったら! のんきね。ミサ子がもう一遍袂を振ってランニングの身ぶりをし、おいでおいでをゲンコのまんまの手でしたときだ。いきなり、
「おい! 何してる、そこで!」
 びっくりしてミサ子が振向くと、立っているのは、縞のネクタイをつけた背広の男だ。
「え? 何してるんだ、ここで!」
 ミサ子は凝っとその男を睨み、それから守衛の方を見た。変な、何か悪ふざけをしかける男かと思ったのだ。が、守衛は、金モールで××商事のマークを縫った詰襟の上から、冷淡な軽蔑した口元をしてミサ子を見下している。――
 ミサ子には訳がわからない。
「――私何かわるいことをしたんですか?」
「何か悪いこと? 人を小馬鹿にしたことを云うもんじゃない! う? 大体何と心得てるんだ。この頃の女どもと来たら変な洋服で一日じゅうとび廻るかと思いや、ふざけた恰好して……さ、名と部を書け。あとで厳重に処分するから」
 受付へミサ子はさっさと歩いて行った。縞ネクタイの男は、片手をズボンのポケットへ突込んだまんま、顎をしゃくって、
「おい、この女に紙と鉛筆をやる」
と云った。
「さ、書くんだ。正直に書くんだぞ」
 ミサ子は口惜しさから人さし指の爪が白くなる程力を入れて鉛筆を握り、紙一杯に大きい字で××○○会社△△部大井田ミサ子と書いた。
 ミサ子がこっちを向いて書いてる間、縞ネクタイは足を開いて立ちぼんやり玄関前の舗道を眺めていた。
 書き終ったと分ると、
「どれ、こっちへよこした!」
と、皮の厚い手をのばした。横面に平手うちをくらわせるような気持でミサ子はさっと紙をつきつけた。
 縞ネクタイは、読み下すなり、あわてて片方の手をポケットから引き出した。
「なんだ!」
 守衛と小柄なミサ子とを急《せわ》しく見くらべた。
「うち[#「うち」に傍点]のもんじゃないじゃないか」
 肌理《きめ》のあらい縞ネクタイの顔が何とも云えず赤くなり、彼は紙をもったまんま二三歩その辺を動いた。
「どうして応接間へ御案内しなかったんだ!」
 順子が、やっと今になって涎のたまったような声で云った。
「――私のところへ面会にいらしたんです」
「いや、実にどうも! あなたも一言おっしゃって下さればよかったんだが……どうも失礼しました」
 守衛に、
「御案内して!」
と云った。
「いいんです」
 そこに立ったまま、ミサ子は言葉短く順子に、
「いつがいい?」
と訊いた。順子は顔をいきなり逆撫でされたような表情のまんま、
「あさってで私はいいけど」
 二人が話している間に、縞ネクタイはどっかへ行ってしまった。
「誰? あいつ」
「大沢っての、庶務よ」
「――じゃあさってね」
「ええ」
 ミサ子は××商事の壮大な玄関を一段ずつ降りるとき、憤怒でまだ脚が震えるのを感じた。

        四

 胸糞がわるいとしか云いようのない心持だ。昼、地下室の食堂へ女事務員があつまったとき、ミサ子は今朝の経験を話した。
「ひどいわねエ、ひとを何だと思ってるんでしょう!」
「××商事の大沢ってば有名なのよ」
「一体、大会社の庶務だの守衛だのって、きっと巡査上りだとか刑事上りよ。馬鹿にしてるわ!」
 一つむこうのテーブルでは給仕達が夢中になってラグビーの話をしながら飯をかっこんでいる。こっちのテーブルで、女事務員たちはめいめいの粗末な膳の上から首をつき出すようにし、一人一人そのとき口を利いてる仲間の顔を見ながら熱心に喋った。
 ××○○会社と云えば日本で指折りの大会社だが、その丸の内を圧すように聳え立つ建物で働いている人間の中には、はた[#「はた」に傍点]に知られない不満がある。
 ××○○会社の二十人近い女事務員はみんな少くとも女学校出だった。柳、ミサ子、その他三四人は専攻科や専門学校出だ。男の社員の場合は中学校出と専門学校出との間には区別があるのに、女事務員だけはそんな区別がなく十|束《ぱ》一からげだった。
 女事務員は決して正社員にはなれない。どんなに永く勤めた揚句でも、女事務員に退職手当をくれるという規則は会社につくられていない。
 会社の都合のいいときはいろいろおだて、実際には「女ども」と軽蔑されるのが、みんなの共通な絶間ないフンガイの種であった。
 女学校出の若い女たちらしく互の中だけで、
「何て馬鹿にしてるんでしょう!」
「人格を無視してるわよ!」
などと不平がよく洩らされた。
 然し、××○○会社には職業紹介所などから人を入れない不文律が昔からあって、多勢いる女事務員たちも、みんな誰かの紹介で入社した者ばっかりだ。
 生活も親や兄の家にいて安定のある者の方が多かった。だから、会社の中でいろいろフンガイし、馬鹿にしてるわ! 何て癪なんでしょう! と云っても、その場その場、とりとめない亢奮で消えてしまうのが癖だ。
 今もガヤガヤ喋っているうちにだんだんみんなの気分の張りがゆるくなって、
「――あなた、それウォータア・カールなの?」
「そうじゃないわ。あれ毎日やらなくちゃ駄目なんでしょう?」
 そんな会話がポツポツ出はじめた。
 ミサ子はテーブルの上へ頬杖をつき、こぼれた番茶のしずくを妻楊子で拡げながら、考えこんでいた。ただ喋っただけでは消えない腹立ちのかたまりがミサ子の胸にある。
 ××商事の奴が、若し本心から怒ってミサ子にくってかかりでもしたのなら後がもっとさっぱりしただろう。××商事の奴のしん[#「しん」に傍点]はガラン洞の気持だったのだ。それは、受付でミサ子が自分の名を紙に書いてた間、ぼーっと往来を眺めていた男の顔付でわかる。
 あいつは、自分のものでない何かの威を借り、高飛車に出たのだ。だからミサ子が他の会社のものだと分ったときのみっともない、卑屈なあわてざまときたら、どうだ。全く「ざま見ろ!」だ。
 然し、ミサ子の苦々しい発見は、そこからも深まった。あんなケチな奴にさえ権力のようなものが与えられている限り、現に順子はたまげてしまって、きくべき口さえ碌にきけなかったではないか。
 今までミサ子はみんな、ほかの女事務員と同じように守衛などというものは謂わば自分達のためにもなる番人ぐらいに考えていた。それも違っていた。ときによれば守衛までハッキリむこうに廻るのだ。そのために雇われているのだ。
 考えているうちに、ミサ子は切ない緊張した心持になって来た。頭の中で、何かカラクリがじりじりと一まわりしかけている。これまでうっかり見そこなっていた自分たち女事務員、勤人の生活の本体というものがわかって来そうな工合だ。
 ミサ子は、思いが凝って上気《のぼ》せ、少し恰好のかわった奇麗な一重瞼をあげて、何ということなく、たべあらした膳ごしにテーブルのむこう端にいる柳の方を見た。
 柳はいつものふっくら落着いた顔つきで、余り喋らずおだやかにミサ子を見ている。が、ミサ子はその眼差しから今は特別自分の心持に相触れる何かを感じた。
 やがて、柳が、
「みなさん、どうオ」
と、持ち前のゆっくりした口調で云いながら椅子をどけて立ち上った。
「お天気がいいから、また四十分ピクニックやらないこと?」
「賛成!」
「私丸菱へ行かなくっちゃ」
 ミサ子を入れて十人ばかりが、柳のゆれている濠端へ出て、初秋の日向を日比谷公園の方へ歩いて行った。昼休みが一時間ある。四十分ピクニックもいつとはなしはじまって、一月に二度ぐらい、日比谷公園の池の畔へ出かけたり、芝生で休んで来たりするのだ。

        五

 狭いコンクリートの階段を三階までのぼって行くと右側に小さい借室が四つ五つ並んでいる。廊下に雑巾バケツや脚立《きゃたつ》が出しっぱなしになっているという粗末なビルディングだ。
 エスペラントの講習会はそこの一室である。
 ミサ子が富士絹の風呂敷づつみを抱え、ソッとドアをあけて入って行くと、荒板を打ちつけて拵えたベンチにかたまって板をしわらせながらかけている連中の中から菅が、
「ヤア……ちょうどいいところだ、早く来なさい。みんな食っちまうヨ!」
と大きな晴ればれした声で呼びかけた。
 エスペラント講習会には実にいろんな連中がやって来ていた。七八人いる女の中にも、女教師らしい洋装のひともいれば、役所づとめらしい地味な袴姿の三十前後のひともいた。男の方はもっと雑多で、若い勤人、労働者風のものから給仕らしい十六七の少年までをこめている。
 めいめいの身分については互に余り喋らなかったが、ミサ子はこの講習会の雰囲気がいかにも親しめた。
 講習がはじまるとき、中尾という黒い服を着た独身者らしい中年の講師が、
「この中で英語や何か、外国語を一つもやったことのない人がキットあると思うんですがちょっと手をあげてくれませんか」
と云った。そのとき菅は茶色のシャツを着た腕を最初にあげて四辺《あたり》を見廻した一人だ。
 それからだんだん講習がすすんで何日目かに、
「君は労働者か?」
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