舗道
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)金《きん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十|束《ぱ》一からげだった。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)とうとうくび[#「くび」に傍点]になった。
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一
あっちこっちで帰り支度がはじまった。ビルディング内の生暖かい重い空気が急にしまりなくなって、セカセカかき立てられた。
ミサ子は紫っぽい事務服を着てタイプライタアをうっている。かわり番こにワイシャツにチョッキ姿の社員が手洗いに出たり入ったりした。大声で、
「ああ、ありゃダメさ!」
廊下の誰かと話しながら肩でドアを押して入って来る者もある。
ミサ子は、その中でわき目もふらずタイプライタアを打ちつづけた。もう一枚、短い手紙がある。それさえ打ちあげれば、一日の仕事はすむわけだ。
男の社員たちは、机の前にくいついている仲間に、
「おい、まだかい?」
と声をかけた。自分は洗って来た手を拭きながら肩越しにのぞき込んだりしている。
しかし、ミサ子に、まだかい? ときく者もいなかったし、退け時におくれまいとして熱心に打っている彼女のタイプライタアの前へ立ち止るものもない。彼女ばかりはいてもいないでも問題にしない扱いだ。
ミサ子は馴れてる。これがこの××○○会社の気風なんだ。入社して来るとき、タイピストは、どうか注意して余り用事以外の口を男の社員ときかないようにして下さい、と云われた。男の社員も、目立つようなことがあってはいけませんから、その辺をどうぞ、と人事課から念を押されている。往来なんかではこれほどのことはないのだ。
急いで、やっともうあと半分というところまで打ったとき、
「ああ君、ちょっとこれをすまんが……」
モーニングを着た主任の馬島が、ミサ子のわきへ急ぎ足でやって来た。
「すまんが、これだけやっておいてくれたまえ」
拇指の腹をなめなめ、手をとめたミサ子の顔の横で厚い洋紙の頁をしらべた。調べ終ると、ミサ子は何とも返事しないのに、
「じゃ、ここへおいとくから……」
さっさと行ってしまった。チラリと、それを見たまんま、ミサ子は小さい椅子の上へ坐り直し力を入れてタイプライタアを打ちつづけた。
女事務員だけが何ぞというとダラダラ居残りをさせられる。しかも、それを断われないような工合になっている。男の社員と女の事務員との間に形式的な格の違いをつけ、事務以外の口を利いてはいけないことにしてあるのなど、なかなか会社のずるいところだ。
いつの間にか、女事務員のことについて口を出したりするのは、社員として見っともいいことじゃないという気風がしみ込んでいる。どの部だって女事務員は一人か二人しかいないから、どうしても損な役割を押しつけられてしまうのだ――。
四時半になるのを待ちかねてドタドタみんなが帰ってしまった。埃っぽい、机のつまった室内を照して天井の電燈がついた。
ミサ子は、洗面所へ行った。ふんだんに水をつかってゆっくり手を洗ったり、髪をかきあげたりしたら、少し気分がさっぱりした。居のこりときまったら、いそいだってつまらなかった。××○○会社は四時半から後の残業は七時以後からでなければ割増しがつかなかった。従って、ちょいちょい居残りさせられても大抵のときはタダで、使われる者の損になるばかりだ。
自動車の警笛。メガホーンで何か叫んでいるぼやけた人間の声。丸の内のアスファルト道路から撥ねかえる夕方の騒音が、人気ない室へつたわって来る。
ミサ子は左手を握って暫く右の肩をたたいてから、再びタイプライタアをうちはじめた。
給仕の牧田が茶碗をあつめにやって来た。
「おや、いたんですか!」
「……あっちに誰かのこってる?」
「柳さんがいますヨ」
給仕が出て行って暫く経つと、キチンとしまっていないドアを少しあけて誰かが覗いた。ミサ子がわざと知らん顔をしていると、今度は全体ドアをあけ、庶務の沖本がのっそり入って来た。
「……御精が出ますな……ひとりですか?」
じろじろミサ子のまわりや誰もいないたくさんの机の方を見まわした。警部あがりの沖本を好いてる者は一人もいなかった。「穴銭」という綽名がついている。頭に穴銭みたいなハゲが一つあった。警部をしていた時分、強盗にかみつかれた跡だという話だが、女事務員たちは、
「うそ! きっと神さんにやられたんだわよ」
と嫌悪をこめて笑った。
神さんにだって喰いつかれそうに憎々しい五十男だ。
「あんた、一昨日だったかも随分おそかったじゃないか……うん?」
ミサ子はむっとして、
「これ見て下さい」
おっつけられた支店長宛の書類を眼でさした。
「四時半になってこれだけ出たんです……こんなに使われて病気んでもなったらどうしてくれるんでしょ」
「ハハハハ……そんなこと会社の知ったことじゃないヨ。ハハハハ」
金《きん》でワクをはめた前歯を出して意地わるく笑いながら沖本は出て行った。
軽い靴音をたてて柳がやって来た。
「どのくらいですむ?」
「さあ……もう一時間……そっちは?」
「八時までにどうしてもやっちゃうわ。一緒に何かたべて帰らない? 帰ってから火なんぞおこしていられないもん」
「私なんか、もういい加減ペコペコだわ」
夜の八時すぎて、庶務へ残業届けを出しミサ子と柳とはやっと宏荘な××ビルディングを出た。
「いやな奴、あの穴銭! 自分で来て見てる癖に、課から部から、姓名まで云わせるんだもの!」
「そういう奴なのよ。こっちからわざわざ届けなけりゃ見ていたってつけないで置くんだから」
それから「モーリ」へ行ってミサ子は支那ソバを、柳はカレーライスをたべた。
二
市ケ谷で省線を降りると、ミサ子はガソリン店の角を、牛込の方へ登って行った。
一番姉の文子が三人の子持ちになって細工町に住んでいる。急に相談したいことがあると、速達が来たのだ。
琴曲教授の看板について石敷の小路を入り、立てつけの悪い門をあけ格子をガタガタやっていると、真暗な玄関へサッと茶の間からの灯がさした。
「だアれ?」
「小母ちゃんよ」
「母さん! 小母ちゃんが来たヨ」
九つの順三の声がした。
「マア、おそいのね、今かえり?」
割烹《かっぽう》前掛で手を拭きながら、文子が台所から出て来て格子の懸金をはずした。
「さあ、どうぞ」
文子が長火鉢の前へ坐ると、九つに五つに三つという子供たちがぞろりと母親にたかって、凝《じ》っとミサ子の方を眺めた。
「どうしたの、順三、小母さんに今日《こんにち》はしたの?」
順三は、体をくんねり母親にもたらして笑ってばかりいる。
「義兄《にい》さんは?」ミサ子が訊いた。
「お風呂から床屋へまわってる筈よ……直き帰るわ」
「お変りなし?」
「相変らず――お友達やなんかにも頼んであるらしいんだけれど、義兄さんのようなのは却って駄目ね。ズブの学校出ならこれでまた、就職口があるらしいんだけれど……」
太田は高商出で、十年余××物産に勤めていた。始めは池内成三という××の大番頭のひきで将来見込みのありそうな鉱山部詰めだった。それがだんだん中軸から遠いところへと勤務を移され、昨年の秋不況と一緒にとうとうくび[#「くび」に傍点]になった。
太田の亡父が知事で、二三軒の小さい貸家と今住んでいる地所家屋をのこして行った。それで、どうやらやっている訳だ。
文子は、
「私この頃つくづくミサちゃんが羨しいわ」
と、しんかららしく云った。
「せめてお小遣いでも自分の力でとれたらどんなにいいでしょうね」
わきに遊んでる子供たちに聞えないようにしながら文子は小声で、
「先月家賃のとれたのはたった一軒よ。お話にも何にもなりゃしない!」
ミサ子は長火鉢の灰をかきながら、姉夫婦の生活に同情と歯痒さとを感じた。結婚当時は、僅かながら不動産もあるし、勤め先もいいしと楽観していたのだろう。けれど、世の中は決して一つところに止ってはいないのだ。
「こないだちょっとわけがあって価格評価をして貰って、私、全く先々どうなるんだろうと思ったわ。地面や家作なんてもう何の頼りにもなりゃしない。価《ね》じゃないのね」
姉の相談は、ミサ子に同居してくれないかと云うのだった。
「恥かしいこったけれど、全く法がえしがつかないの。だからミサちゃんの都合さえよかったら、よそを肥やすより、うちをすけて貰えまいかしらと思って――」
ミサ子が急場の返事に困って黙っていると、
「図々しすぎる?」
文子は微《かすか》に顔を赧らめながら極りわるそうに笑った。
「そんなこと決してないわよ。……でも義兄さん承知なの?」
「承知するもしないもないじゃありませんか――。ミサちゃんだって楽じゃないでしょう? 自炊なんて簡単なようで面倒くさいもの……家にいりゃ台所へ立たせるようなことはしなくてよ」
ミサ子が××○○会社からとっている月給は英文、邦文両方やって三十八円だった。そこから天引食券代五円、クラブ費親睦費とさしひかれる。間代を十円払うと、あと食べてエスペラントの月謝を出し、たまに映画でも見るのがやっとだった。
何時になっても家へさえかえれば、炊いた御飯があるというだけでも、のんきになれる。だが――
「どうしようかしら……」
ミサ子は首を振り振り返事に迷った。実のところ、ミサ子は姉夫婦のやってるような暮しの中へ引ずり込まれるのが厭だった。
ハッキリ返事しないでいるうちに、
「ヤア」
と、太田がドテラに羽織という姿で帰って来た。
濃い眉と眉との間をテラテラ光らせ、剃りたての顎、長めな鼻の下へ小さく髭を立ててる。ミサ子が知っている限りの太田は、いつも同じ片づいた表情で、
「――どうです? この頃は」
と長火鉢の前へ座った。
「相変らず……」
「どうだね、一つミサ子さんの会社へでも雇って貰えまいかね」
嘘とも本当とも分らない表情でそう云いながら太田は朝日に火をつけた。
「私みたいなヘボからじゃだめよ」
「いくらでもいいよ。ほんとに! そう云ってみんなに頼むんだが、これでいざとなるとそうも行かないものと見えてなかなかないね」
一種の自負ありげに云うのがミサ子には気の毒だった。
「……二年は辛いわね、でも……」
「ああ。しかし、いろんな事業はやっていますよ。ボール・ベアリング、鉄の円い玉だが、カフス・ボタンやいろんなものにつかって銀ぐらいねうちのあるもの、あれの製造工場をやっているし……」
「儲かります?」
わきで紅茶をいれながら文子が、
「それどころじゃないのヨ!」
やりきれないという目顔をして見せた。
「今のところは、とてもそこまでは行きませんな。何しろ得意がああいうものはきまっているから、そこへ割込むのが大変だ」
ミサ子は、太田が十年余も大ブルジョア企業の中に働いていたのにまだそんなことを考えてるのかと不思議な気がした。ミサ子の浅い知識で理解したって今の不況は生産がなくて不況なんじゃない。在りあまって市場がないから不況なのだ。
「小資本じゃ駄目なんでしょう?」
「駄目だね。……だがこんどは一つトーキー映画会社をやりますよ、資本百五十万円の。――これは確にいいね!」
パラマウントが、天然色写真で同時にトーキーの何とかという最新撮影機を、元同じ××物産で今は蓄音器会社に関係のある友人へ特別契約でよこした。日本で、天然色トーキー映画フィルムをつくる。それが世界へ出て儲けは確実だというのだ。
余り話が簡単なんでミサ子は思わず……
「……だって、俳優を見つけたりするの大変でしょう? そっちはどうなるの?」と訊いた。
「ナニ、そんなことはどうでもなる」
「だって……スタアを引っこぬくのに大した金でしょう? それにいい監督だって買って来なくちゃならないし……」
「いや、それは何とかなります。十万円もする機械が何しろタダ手に入るんだから……」
ミサ子は義兄の云うことをきいているうちに鳩尾《みずおち》の辺がつめたくな
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