本が、
「ちょいと、ニュースよ。今度来た太田さんて太田淳三の姪《めい》なんですって!」
と、眼を大きくして報告した。
「重役の?」
「そうなのよ」
「どうりで、われわれとは違うわけだわね」
 サワ子が苦笑いを泛べた自分の顔を鏡にうつしながら、どこか自棄《やけ》っぽい口調で云った。
「そいでね、ここの月給なんかほんのお小遣いなんですってさ」
「ふーん」
 ××○○会社では、女事務員を箇人紹介でだけ雇うのだが、そのとき紹介者が会社の相当どころの者であるとないとでは、入社してからの待遇がちがった。重役の縁辺の者だと、入社当時の月給は同じだが、一年ずつの定期昇給の率や賞与の率がずっと高いのであった。
「――私だってこれで憚りながら入るときは、重役の紹介よ」
 れい子が手を洗いながら云った。
「へえ……そうなの! 誰?」
「外田権次郎」
「人事課のひとったら、外田さんの何にお当りですかって、そりゃしつこく訊いたわよ」
「姪ですって云えばいいのに!」
 柳の言葉にみんなが笑い出した。
「何でもないんですって云っても、どうかありのままおっしゃって下さいだって!」
「卑怯だわよ。大体会社のやりかたったら!」
 サワ子が癇のたった声で云った。
 太田千鶴子に対する漠然とした共通な反感が微妙に働いてもとからいた××○○会社の女事務員たちの心持を一つにまとめるきっかけ[#「きっかけ」に傍点]となっているのがミサ子にさえ、はっきり感じられた。はる子の慰問金あつめの仕事が、太田の来てからの方がやり易くなったのでもそれは分る。――
 間もない或る日曜日、ミサ子は下宿の水口の外へ盥《たらい》をもち出し、勢よく肌襦袢の洗濯をやっていた。
 一週間朝から夕方まで丸の内のオフィス・ビルディングの中で、コンクリート床を擦る靴音、壁に反響するタイプライタアの響にのまれて暮していると、塵の少ない休日は閑散な空気の工合まで肌ざわりが違うように感じられる。
 水口のわきにあらい竹垣があって、そこに山吹の幹が荒ッぽく繩でくくられている。ざぶ、ざぶ濯いではその水をミサ子は山吹の根元の小溝へあける。
 牛込の姉の暮しが心に浮んだ。同居の話を断ったのは、気の毒のようだがよかったと思った。
 ミサ子も姉の文子も同じ生れではあるが、こういう激しい世の中にあって、生きる態度は別々であった。ミサ子にはこの頃自分たち小ブルジョアの女の生きかたというものが、やっと腹にはいって来た。××○○会社の女事務員という現在の社会での自分の身分と、自分たち働いて食って行かなければならない女として一人一人が胸にもっている不平不満、希望とをつき合わして見れば、実質のない澄しかたなどしておれない。自分がつまりプロレタリアの一人の女だということがだんだんはっきり分ってミサ子はこの頃腰のすわった、闘いの対手がわかった確《しっ》かりした心になっているのであった。
 洗濯物を洗面器へ入れてもって上り二階の自分の窓前の細い竹竿にかけていると、下で、
「今日は……」
という声がする。小母さんがいないと見えまた、
「――こんにちは……」
 ミサ子は、いそいで玄関へ下りて行った。
「いたのね、よかった!」
 格子の外に柳と思いがけない坂田とが顔を並べて立っている。赤と藍の細かい縞の割烹前掛姿のミサ子は、
「まあ……」
 栓をとって格子を開けた。
「どっかへ出かける?」
「いいえ! さ、上って下さい」
 柳はちょいちょい遊びに来たが、坂田は初めてだ。二階へあがると帽子を畳へ放り出しておいて窓の前に立ち、外の景色を眺めた。
「なかなかいいじゃないですか」
「ホラ、そこに、むこうの屋根から見えるの落葉松よ」
 柳が、わきに立って指さして説明してやっている。戸棚から坐布団を出しているミサ子に、
「あの鸚鵡《おうむ》まだいるの?」
「いるわ」
「何です?」
「あの家に変な鸚鵡がいて、イヤー、イヤーって鳴くんだって」
 林檎を柳がもって来た。それをむいて食べながら会社のこと、はる子の慰問金のこと、エスペラント講習会のことなど三人は話した。
「――内務省なんかでも、この頃は実は実にうまくクビにしますよ。もとみたいに一どきにドッとは決してやらないんです。いつの間にかいない。おやと気がついたときはもう夙《とう》に引導をわたされている。――手が出ないですね」
「ああね、ミサ子さん、あなたこの頃やっぱりちょいちょい左翼劇場見に行くこと?」
 柳がスカートの膝をくずして坐り、蕎麦《そば》ボールをつまみながらきいた。
「大抵行くわ」
「私ね、昨夕《ゆうべ》行って来たんだけれどね……あなたどう思う? 私せっかく観るのにてんでんばらばら一人一人見てそれっきりにしておくの惜しいと思うんです。きっと会社にも芝居ずきはいるんだから、誘いあって観て、あと座談会で
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