だ水を何とかしてのまそうとしているところだ。
 三人ばかりの男の社員がかたまってそれを見ていた。
「それじゃ駄目だよ。歯をくいしばってるもん」
 しづ子が、
「はる子さん! はる子さん!」
 おろおろして気を失っている対手の帯の辺をゆすった。
「――口うつしがいいんだがねエ」
 小母さんが云った。
「おい、平田! どうだ一つ!」
「ばか、人工呼吸すれば、脳貧血ぐらいすぐだヨ」
 云うばっかりで誰も実際には手を出さないところへ、
「一体、どうしたんだ」
 沖本がかがみこんだ。
「へ、あたしがね、ここんところを拭いていると佐田さんがはばかりから出て来てね、ああ気分がわるいって、窓の方向いてぼんやりしてたかと思うとよろよろっとして倒れそうんなったんでネ、この床で頭をうっちゃ一たまりもあるめえって、仰天してつらまえにかかったって、あなた、こっちはこの体だもの、もろにへたっちゃって……」
 沖本は、半分ぐらい説明をきくと、黒く垢のつまった爪の生えた指で事務的にはる子の瞼をひっくりかえして見た。
「大したことはあるまい。――もう一人か二人つれて来い、ここへころがしとくわけにも行くまいから」
「沖本さん! 死んじゃうんじゃないかしら」
 しづ子が泣きそうに云った。
「――ふ、こんなことで死んだら女なんてものは一生に二十度ぐらい生れかわって来なくちゃなるまい」
「体のせいだねエ」
「沖本さん!」
 ミサ子が沖本の後からつよい声を出して呼んだ。
「医者呼んだんですか」
「いいだろう」
「ひどいわ! だってあなたに容態なんか判らないじゃありませんか。若し、何かあったらどうするんです」
 沖本はミサ子のいうことになんぞ耳をかさず、小使がやって来るのを待って、
「それ」
と、唇の色をなくして倒れているはる子の方を顎で掬った。××○○会社には、一脚百何十円とかする鞣皮張《なめしがわばり》の安楽椅子が二十脚も並んだ重役会議室があった。が、設備のある医務室というものはなかった。
 二人の小使にぐったりとだかれてエレベータアの方へ行くはる子のわきについて歩きながら、しづ子が後毛《おくれげ》を頬にこぼして、
「小母さん、すみませんがよく見てやって下さいね、ほんとに私心配だわ」
と云った。
「ああよござんすヨ」
 沖本がその連中について形式だけの応急室につかわれている室の方へ降りて行かず、スッと庶務の方へ曲る後姿を見ると、ミサ子はムラムラとした。
 五時になるのを待ちかねてミサ子はこんどは柳を誘い、二階の端《はず》れにある応急室へ行って見た。
 ドアをあけると室の中はもうガラン堂だ。はる子がいたときあげたのだろう。茶色のブラインドが一枚だけ巻き上っているところからだけうす明《あかり》がさして、むこう側のビルディングの窓が往来をへだてて見えている。毛ピンが一本床に落ちていた。ミサ子はそれを見ると淋しい気がした。
「大丈夫だったのかしら」
「……さア……」
 洗面所掛の小母さんにきいたら、気がつくと沖本が来て、
「どうだね、そろそろもう帰れるだろう」
と云ったので、はる子はまだふらつくが守衛に自動車をよんで貰って独りでかえったということだ。
「どこなのかしら家って」
「代々幡《よよはた》だわ」
「――自動車代、会社で出すのかしら」
 柳は、
「出すものか!」
と云ったぎり黙り込んだ。

        八

 二三日経った。けれども、はる子は出勤して来ない。
 やがてはる子を知っている××○○会社の女事務員の間に、はる子さん大分悪いらしい話だわという噂がひろまった。
 洗面所の鏡に向って髪を直しながら、
「はる子さんの、その肺リンパって、肺病なのかしら」
と、瘠ぎすの依田とよ子が云った。わきで、ザア、ザア水を出して手を洗っていた柳が、
「肺病って――結核じゃないのヨ。でもあたし達の職業病だわ。邦文タイプを永くやってると、力を入れる工合でみんなそうなるのよ」
「たまんないわねエ」
 はる子は××○○会社の女事務員の中では古株で六七年勤めみんなから信用されていたのだ。
「はる子さんぐらいになったら、病気手当ぐらい貰えたっていいわね」
「そんなもん、会社が出すもんですか」
 依田とよ子がいつもになくプリプリした口調でミサ子に云った。
「私が入社するとき、人事課の細谷が真先に『あなたの御両親は御健在ですか』ってきいたことよ。父はいませんて云ったら、何病で死なれましたかだって。……私が病気んでもなれば、そりゃ遺伝だって片づけられちゃうにきまってるわ」
「――何だったの? お父さん」
 クリーム色の帯あげをしめなおしながら、サワ子が子供っぽく訊いた。
「船長だったのよ。南洋航路で船が沈没しちまったんです」
「アラ……。じゃそんなもの遺伝しやしないじゃないの」
「きまってるわ。だ
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