「そうだ。君も労働者か? どこに働いているのか?」「金属工場に働いている」
という問答が出て来たことがあった。すると菅が、
「アノー、菓子工場って云うのはエスペラントで何ていうんですか」
ときいた。みんなは何ということなし、素直な菅の質問に好意を感じて笑った。菅は自分が菓子工場に働いていることをみんなに隠さないばかりか、ときどきハトロン紙の大袋に一杯パン菓子を抱えこんで来て、みんなに振舞った。
 今夜も、カサのない電燈の下にかたまっている中心は、菅のもって来た菓子だ。
「食べろよ、同志!」
とあやうげなエスペラントで、しかもそう云えるのがいかにも満足そうに云いながら菅が席をつめてミサ子を自分のとなりにかけさせた。
「ええ、ありがとう」
 ミサ子は、むこう側に坂田がいるのを見つけて、軽く目礼した。ずっと講習会の始まりから来ている。ついこの頃柳の従兄で内務省に勤めていることがわかった実直そうな青年だ。
 勤めがえりが多いから、パン菓子はいつもみんなに歓迎される。
「これで番茶が一杯あったら申し分なしだのにね」
 ミサ子のために席をゆずりながら、別に挨拶もしなかった三輪みどりが、紅を濃くぬった唇から煙草の煙をフッとふいて云った。
「菅さん、親切ついでにヤカンもこの次もって来てよウ」
「丸ビルにゃ、ヤカンなんぞいくらだってあるんだろう。一つかっぱらって来なヨ」
「――御冗談でしょう!」
 長めな断髪にコテをあてて耳のまわりへ捲きあげ、みどり[#「みどり」に傍点]は、黄色い薔薇のような半衿に、派手な銘仙の着物を着ている。和服でも高く脚を組み、女同士より却って男の連中と気安げによく喋った。そういう点が講習生の中でも目立ち、女事務員と云っても、ミサ子たちの気風とはガラリとちがう。
 菅は、だれをも分けへだてしない口調で昨夜近所のラシャ屋へ入った強盗の話をした。
「店の若いもんに追っかけられて、ものの十町と逃げないうちに、とっつかまちまいやがった。そいつったら、懐へデッかい自動車のラッパをもっていましたヨ」
「――何です? そのラッパは、ぬすんだんですか?」
「そいつはね、入ろうと思う家の前でそいつをブーブーやって『今晩は! 今晩は!』とやったんです」
 詰襟服を着た少年の尾野が、
「この頃は犬の鳴声の素敵に上手《うま》い奴もいるってネ」
 そう云いながら、パン菓子へ手をのばし、一どきに三つ四つ掌へ握りとって食べている。――
 最後にドアがあいて、
「|今日は《ボーナン・ターゴン》」
 肩のガッチリした中尾が入って来た。いつも通り、ゆっくりした動作でステッキをビラの下っている壁の隅にたてかけ、ポケットから水色の薄い教科書を出しながら、
「――なかなか御馳走ですナ」
 笑って教壇がわりの大机の前へ行った。
 立ち上って机から菓子屑をはらっていた菅が、
「失礼ですが、アノー、ここにとっときましたから」
と、わざわざ菓子の包みを挙げて見せたので、みんな笑った。
 今日は第六課だ。
「君の工場主はどんな人間か?」
「大ブルジョアだ。彼は赤い面をしている。然し赤い思想は大嫌いだ」
という文句が、クッキリ太い活字で教科書の中へ出て来たとき、ミサ子を入れて三十人ばかりの講習生は粗末な室の中で愉快そうにドッと笑い出し、窓の下を通っている江戸川行電車の響を一時消した。

        六

「真直《まっすぐ》おかえりですか?」
「ええ」
 エスペラントがすむとミサ子と坂田とは偶然並んで九段ビルを出た。まだ十時前で、散歩する人通りとレコードのジャズの響が歩道にあふれている。
 チカチカ眼をさす店頭の灯をはなれて天を見ると、小さく澄んだ月があった。そう気がついて見ると広いアスファルト車道のところは、どこか蒼んだ月の光がおびただしい街燈の輝きの底に閃めいている。
 ミサ子は、フェルト草履で歩きながら、
「柳さんにこの頃ちょいちょいお会いになりますか」
と坂田にきいた。
「ええ会います」
 それから、笑いを含んで、
「こないだは××商事でえらい目にあわれたそうですね」
 優しく顔を見られて、ミサ子はちょっとてれた。
「――ええ。……でも私あとから考えてもう一つ口惜しいことがふえたんです」
「どういうことです?」
「だってね、××商事の大沢が私をドナリつけたときね、私思わず知らず『私何かわるいことをしたんですか』って云っちゃったんですの。どうして『あなたが私をドナル権利はないでしょう!』って云ってやらなかったかと思うわ」
「ハハハハハ……でも大分みんなほかの女事務員のひと達もフンガイしたそうじゃないですか」
「ええ――でも駄目です。二日もたつとみんな忘れてしまってるらしいんですもの」
「――ひとつ、そんな会社、やめてやったらどうです?」
 坂田のおとなしそうな風采や地
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