なに使われて病気んでもなったらどうしてくれるんでしょ」
「ハハハハ……そんなこと会社の知ったことじゃないヨ。ハハハハ」
 金《きん》でワクをはめた前歯を出して意地わるく笑いながら沖本は出て行った。
 軽い靴音をたてて柳がやって来た。
「どのくらいですむ?」
「さあ……もう一時間……そっちは?」
「八時までにどうしてもやっちゃうわ。一緒に何かたべて帰らない? 帰ってから火なんぞおこしていられないもん」
「私なんか、もういい加減ペコペコだわ」
 夜の八時すぎて、庶務へ残業届けを出しミサ子と柳とはやっと宏荘な××ビルディングを出た。
「いやな奴、あの穴銭! 自分で来て見てる癖に、課から部から、姓名まで云わせるんだもの!」
「そういう奴なのよ。こっちからわざわざ届けなけりゃ見ていたってつけないで置くんだから」
 それから「モーリ」へ行ってミサ子は支那ソバを、柳はカレーライスをたべた。

        二

 市ケ谷で省線を降りると、ミサ子はガソリン店の角を、牛込の方へ登って行った。
 一番姉の文子が三人の子持ちになって細工町に住んでいる。急に相談したいことがあると、速達が来たのだ。
 琴曲教授の看板について石敷の小路を入り、立てつけの悪い門をあけ格子をガタガタやっていると、真暗な玄関へサッと茶の間からの灯がさした。
「だアれ?」
「小母ちゃんよ」
「母さん! 小母ちゃんが来たヨ」
 九つの順三の声がした。
「マア、おそいのね、今かえり?」
 割烹《かっぽう》前掛で手を拭きながら、文子が台所から出て来て格子の懸金をはずした。
「さあ、どうぞ」
 文子が長火鉢の前へ坐ると、九つに五つに三つという子供たちがぞろりと母親にたかって、凝《じ》っとミサ子の方を眺めた。
「どうしたの、順三、小母さんに今日《こんにち》はしたの?」
 順三は、体をくんねり母親にもたらして笑ってばかりいる。
「義兄《にい》さんは?」ミサ子が訊いた。
「お風呂から床屋へまわってる筈よ……直き帰るわ」
「お変りなし?」
「相変らず――お友達やなんかにも頼んであるらしいんだけれど、義兄さんのようなのは却って駄目ね。ズブの学校出ならこれでまた、就職口があるらしいんだけれど……」
 太田は高商出で、十年余××物産に勤めていた。始めは池内成三という××の大番頭のひきで将来見込みのありそうな鉱山部詰めだった。それがだんだ
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