坊まで、戦禍にまきこまれずにはすまない。これは日本の状態を見ても明瞭である。地震で家を破壊され、堤防決壊で人の流されることになれている日本の人民生活の自然に対して未開な抵抗力しかもっていない習慣で「復興」ということが妙に現実よりもたやすく想像されている傾きがある。東京の焼野原に果して何が復興しているだろう。少しは小ぎれいな十五坪住宅が、金儲けの上手だった人々によって建てられているぎりである。大風でとびそうな小家がやっと道ばたに並んだ程度で、近代都市が復興したとはいえない。そこには辛うじて雨露をしのぐ手だてが出来たというばかりである。
 歴史がくりかえされないことは、この一事をとっても明白ではないだろうか。第一次ヨーロッパ大戦のとき、日本は最後の段階に連合国側に参加してチンタオだの南洋諸島だのを、ドイツから奪って統治するようになった。第一次大戦のとき日本で儲けたのは海運業者であった。船成金ができて、金のこはぜの足袋をはいたとさわがれたが、一般の人民生活は、それに便乗してせめても銀のこはぜの足袋でもはいただろうか。大正九年の大パニックで破産したのは郵船の株主ではなかった。米一升が五十銭を突破して米騒動がおこった。やっぱりこまったのは民衆であった。
 ヨーロッパにおこった第二次大戦の過程のすきをくぐって、満州、中国、南方までのきりとりをたくらんだ結果はどうだろう。日本は、壊滅の一歩手前に追いこまれた。主食補助のやみの米が一升二七〇円している。戦争がほんとうにおそろしいのは、空から焼夷弾、爆弾の降って来る最中よりも、むしろ戦後破滅からの回復が困難であることである。日本のように、自分の国の天然資源が少い国土では、この点がよそより一層深刻である。

 どこの国でも、ほんとに働いて暮す人民層は戦争に便乗して得るどんな利益もあり得ないことがこのたびの戦争で世界じゅうに経験された。だからこそ八千一万の婦人が五十数ヵ国から集って民主婦人連盟を組織し、世界の永続的な平和のために努力しはじめているし、世界の労働組合総連合ができて、平和の確保に努力している。これは理の当然だと思われる。なぜなら、戦争は全くある国の人民と人民とが、それぞれの国の独占資本のより強化の幻想のために殺し合わされるにすぎないことが、明々白々な事実としてわかったのだから。
 戦争が、人類社会の未開な時代の遺物であり、現代でも、まだ一部の者は実力で争うという場合、戦争を想像している。けれども、こんにちの科学はイギリスの政治家が云っているとおりの事情になっている。――イギリスがソ連とたたかえば一週間で壊滅されるだろう。アメリカとたたかえば一ヵ月でイギリスはつぶれるだろう、と。――
 戦争というものは、第二次大戦を経たこんにちでは、世界においてますますその古くさい野蛮さと非条理とを明白にしている。その証拠には、こんど第二次大戦に勝った強大国が、負けた諸国と無関係に自分の国の内だけの繁栄をたのしんでいられない有様を見てもわかる。
 第一次大戦のとき、連合国の一つとして最も少い損害をうけたのはアメリカであった。第二次大戦で、最も僅かの人命を犠牲としたのはアメリカであったし、本土に襲撃を蒙らなかった唯一の国もアメリカであった。そのように比較的少い損傷でヨーロッパと東洋のファシズムとたたかい、それをうち倒したアメリカが、こんにちもっている諸問題の複雑さと大さとはどうだろう。国内的に国外的に決して解決に容易だといえない問題を両手いっぱい、膝の上にまでもっている。
 戦時中、軍需生産のために膨脹した生産能力を、同じに近い利潤を生むように運転して行こうとする努力、その一方では、それと矛盾して見える物価の高騰をふせぎ、インフレーションのおこることをおさえ、賃銀の安定のために企業家が利潤低減のさけがたいことを認めるようにと冷静な分別が求められている。ヨーロッパを救うという義務は、アメリカが全人民生活の安定を保ちながら、どこまで負担し、実現し得ることか、救世主めいた誇大な表現をさけよ、という声がきこえている(朝日ニュース)。しかし、その半面では西ヨーロッパと東ヨーロッパの対立を挑発し、また秘密計画Xと金権活躍を公言して、弱小国の人民の意志の買いしめを宣言して憚らない。
 現代の独占資本という魔ものがひきおこすあらゆる混乱と矛盾を、魔もののしきたりの下で解決しようと、そのために時間を稼ぐ一つの手段として、それをきいただけでも身の毛のよだつ戦争という脅しの大凧があげられているわけである。

 こういうわけだから、また次の戦争がおこるかもしれない恐怖の大凧を空中にユラユラさせながらも、その凧の糸を握っている人々は、風向きによって糸をどうくるかということは案外よく見ている。自分が凧にふきとばされないだけの用心をしながら、高く低くと風むきを利用しながら戦争挑発の凧糸をあやつっているともいえる。
 この恐怖の凧が、日本の空にも見えるようになりはじめてから、わたしたちの周囲には注目すべきさまざまの便乗現象がおこって来た。
 この次の機会にこそ、日本は漁夫の利をしめるか、さもなければ大漁祝いのわけ前にありついて、前回でものにしそこねた北や南での領土的野心をみたすことができるという潜行的な宣伝が行われている。あれこれと形をかえて、民間にはいりこんでいるもとの職業軍人や憲兵、ファシストのある種の人々は、ぐるりの青年たちにそういう教育をしみこませている。世界の様子もしらず、軍事教育で育てられて来た青年は汽車の中でそういう話もあり得ることのように喋っている。
 かくれたファシズムの力が、日本の安定をぐらつかせようとしていることは、こういう場合ばかりではない。平和をみだそうとしているものは、共産主義者その他の進歩的分子であるといういいかたさえあらわれた。満州事変以来、日本の侵略戦争に反対し、戦争によって人民の生活を悲惨にすることを拒絶しつづけて来たのが赤であったことは、憲兵や検事局がよく知っている。あいつは赤だ、という迷惑なレッテルは、どこの職場でも、「聖戦」に何か批評を加えるものにはられた。それが、いつの間にかさかさになって、世界のファシストたちが、平和をみだす軍国主義者は共産主義者だなどといいはじめたのはなぜだろう。共産主義者そのほか、人類社会が発展し幸福になるためには、社会生産の機構が資本の解放とともにもっと万人の幸福のためになるようにくみかえられなければならないと考える人々は、労働者にしろ学者にしろ、資本の独占の形や、それを守るための弱肉強食に賛成しない。それらの人々はあいかわらず、侵略戦争に反対しているし、戦争挑発流行の本体をすべての人にわからせて、しん[#「しん」に傍点]から人民の生活安定に必要な平和確保の実行が可能であることをわかりあおうとしている。
 一定の利害によって戦争挑発に従事している人々にとって、それは戦争中邪魔だったとおりに、いまも邪魔である。何とかして真面目に戦争をきらう人民から、そういう協力者をきりはなしたい。そのために、これらの人々は戦時中はもっていなかった輸入の知慧を役立てはじめた。どんな愚かな母でも、子供をおどかすのにはその子の一番きらうものをつかっておどかす。そのて[#「て」に傍点]がつかわれている。いま日本のすべての男女にとって一番いやなのは戦争の不安である。したがって戦争の危険を濃くするのが共産主義者であるというまるでさかさな観念を根気よくふきこんでゆけば、戦争なんかたまるか、と思っている民衆は、だんだん共産主義者のいう事実を疑うようになり、ついには耳を傾けないようになるだろう。そうなれば、戦争挑発はまるでたやすいことである。昔アフリカに奴隷の市場と買われた奴隷をつみ出す港があった。そこから奴隷船が通っていた。そのように、日本という小さい貧しい島が、軍夫の島とさせられる可能がないとは云えない。――わたしたちがくれぐれも忘れてならないことは、そのアフリカの奴隷市、奴隷港でも、黒人奴隷売買の親方は同じ黒人の酋長や金持であったという事実である。

 日本人民の運命には重大な危険がかくされている。それを念頭において今日の政治を観察し、ポツダム宣言に誓われた日本の民主化が巧妙に内外のファシズム勢力の増殖にすりかえられてゆく過程を注視すると、便乗というものの最悪の典型がそこに発見される。日本の小規模な独占資本は、より強大な国外の独占資本の利益追及に便乗してそのおかげで存続しつづけることに決心している。便乗というとき、より大きなそのときの勢力にこちらから出向いて行ってそれにひとくち乗せてもらう場合を考えるのがならわしとなっている。ところが、こんにち、日本の政治権力をにぎってはなさない独占資本の勢力は、便乗の新型を行っている。ミズリー号の上での調印と一緒に日本の土地にあがって来た勢力を迎えて、日本の旧勢力者たちもはじめのうちこそ日本の民主化のためにはこういうこともした、ああいうこともすると見せていた。それが、この頃では、目先の魚心と水心に結ばれて、より強大な独占資本がのぞむだけ自由勝手に日本の生産企業の中にくいこませ、本国におけると同じよりも多い利潤の吸い上げ場としての日本にすることを承知した。そのかわり、大規模な金と力で行うその作業に便乗して、原地の独占資本家たちである日本の資本家も、戦前に比べてより少いとは云えない利潤を吸いあげてゆく可能性を見出した。

 国庫予算の中でも終戦処理費があまり厖大であるためにわれわれ人民は各種各様の課税にくるしんで来ている。その上に、昨今は取引高税その他日常生活に直接ひびく課税目録がふえた。脱税は重い刑でとりしまるとおびやかされている。政府は、日本の目下の状態として、やむを得ないと責任をさけるが、大きい男の肩にしょわせた包みの中にはちゃんと自分たちのとりまえがふくまれている。人民はしぼられっぱなしである。
 人民生活をわだちにかけて、一握りの特権者が利慾をたくましくしようとしている国際的な便乗図絵は、無邪気な昔の人が目を見はった地獄図絵よりも偽善的である。地獄絵で、赤鬼、青鬼は金棒をもち、きばをむき、血の池地獄へ亡者どもをかりたてた。しかし、きょうの日本の便乗悪鬼は、鼻の下にチョビ髭をはやして外国語を話す紳士首相の姿をしていたり、さもなければ、でっぷり艷のいい二重顎にふとって、白いバラなどを胸にかざった党首としてあらわれたりしている。
 言論・出版の自由は、世界の公約であるけれども、日本には用紙割当事務庁というところが新設されて、主務大臣の野溝は、もう地方新聞に紙はいまにいくらでもまわしてやると失言した。人民の公器であるラジオの民主化がいわれているうちに、政府は全く官僚統制の放送事業法案を議会に上程した。これらの言論・出版の自由の抑圧にしても、きょうでは、出版の民主化とかラジオの自由な発展とかいう表現に便乗して行われようとしているのである。
 わたしたちは、なぜこのように執拗に、現代便乗図絵の詳細を追及しなければならないのだろうか。その答えはただ一つしかない。わたしたち人民は、人民生活をそのわだちにかけてころがってゆくどんな権力にも決して窮極的に便乗し得ることはないからである。人民が自身の力で国の独立と、生産や文化の確立をなしとげるために奮起しないかぎり、人民というものは搾取の対象でしかあり得ない。ほこりある日本の人民のするべきことは、便乗の可能のない人民である自分たちの立場にむしろ歓喜して、歴史のちりほこりにめげず、われら人民の世界に通じる道を着実にすすみゆくことである。
[#地付き]〔一九四八年九月〕



底本:「宮本百合子全集 第十六巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年6月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第4刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第十二巻」河出書房
   1952(昭和27)年1月発行
初出:「光」
   1948(昭和23)年9月号
入力:柴田卓治
校正:磐余彦
2003年9月14日作成
青空文庫
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