哀感が残ります。その場合そういう心理が文学的にどういう反応を示すかというと、やっぱり文学というものは闘争を描き、同じような生活環境を描いている労働の文学よりも何かもっと違ったところに文学の本質はあるのじゃないかと、逆にブルジョア文学の雰囲気的なものにひきつけられる気持にもなってゆきがちです。
 この点は、働く人の職場での文学の趣味の内容をよく知っている皆さんなら理解なさると思います。
 あらゆる民主的組織の文化・文学的活動は、こういう風に勤労者の生活感情に複雑に影響してくるブルジョア文化の反映と注意深く闘ってゆかねばなりません。これもファシズムとの闘いへのはっきりした一翼です。人間の人間らしい文化的な欲求を階級の発展する歴史の必然に一致させて、それをのばし主張してゆくこと、ほんとに自分たちの文化を闘いとってゆくことは、口でいうほど簡単でありません。また、組合活動の中心課題がストライキは一段落だから今度は文化活動へ[#「今度は文化活動へ」に傍点]という考え方で成り立つものでもありません。わたしたちは、人間らしくこの人生を愛するからこそ自然に職場で活溌に働くようになるのだし、その経験から革命的にもなるのです。自分にぴったりした人生の現実として階級の意味を理解し、それをいとおしむからこそ、わたしたちのヒューマニズムにおいて人民的な民主主義の立場をとらないわけにはゆかないのです。
 文学サークルに属す人々と、組合指導部との間に何か気分のぴったりしないところがあったということは、こんにちわたしたちがファシズムと闘って日本に民主主義をおしすすめてゆくために、生きてゆく感情[#「生きてゆく感情」に傍点]として注意深くみなおされていい時期だと思います。文学の非常に好きな組合員が組合活動の忙しい時は、文学には眼をつむって、ある時期だけは死んだ気になって組合活動をやる。実際そういう気持を経験している人があるのです。そして組合の方がひまになったから文学へかえるという風な――一日は二十四時間しかないから時間的にはこういうこともさけがたい実際です。けれどももう一歩つっこんで考えてみると、働く者の文学、人民の文学が育ってくる過程にある問題として、この「死んだ気になって」ということは相当重大な意味をもっていると思います。組合活動が非常に忙しいという時は、大体に云って階級的感情の発露や集団的討論・行動の高揚した時期です。いいかえれば、その人としての階級的・人生的な経験の豊富ではげしい時であるはずです。その時期にその人が死んだ気になって機械的なストライキマンの役割で働いたとしたら、その経験を通じてその人がどうして政治的・文学的にゆたかにされることができるでしょう。ストライキを描いた小説に事件と筋しかなくて、文学的な人間性が欠けていた原因がこういうところにあります。
 大体文学的に人生を生きるということはどういうことでしょう。ブルジョア・ジャーナリズムのあれこれの作品について受け売り批評をすることでもなければ、口の先だけで民主主義文学創作方法あれこれをしゃべることでもないでしょう。毎日のテムポの早い内容の実に複雑な生活の上に起るさまざまの事件、さまざまの気持、さまざまの人間関係などは、多くの人にとってその本質的な意味を考えたり、ちらりと心にひらめいた感じを追求してそれを事柄の本質にまで追いつめて自分に受け入れてゆくということはできなくて、一日一日とすぎています。文学を愛し、文学を志す人の気持というものは、おしながそうとする生活の波に対して盲目であり得ないというのが本質です。だからくりかえし云っているこの度の十九名のファシスト達の問題についても、形式的なブルジョア権力の道徳からいえば、法律が無罪としたならばそれは罪がないということにおさめて平気です。だけれどもトルストイの「復活」でさえもカチューシャという女主人公をとおしてブルジョア法律の非人間性を暴露しています。
 治安維持法という全く権力擁護の悪法によって血ぬられた立身出世の階段を一段一段と経のぼった人間が人民の正義と自由に対して罪のない者であるということは、人間としての正義感が承知しません。こんにち、権力をもっている支配者たちの法律がそれをどう擁護するにしろ、正直な人民の正義感はそれに承服しません。ブルジョア文化・文学の感覚では、こういう種類の憤りの実感をいわゆる「イデオロギー的表現」として型にはめています。頭で考えていわゆる階級性でそういうことをいうのだと思っている。でもわたしたちのこの感じは、本当にそう感じるのです。ブルジョア文学がいつも大事に創作のモティーフとして、純粋性として主張する実感そのものなのです。こういうところにはっきりブルジョア文学の文学感覚と、わたしたち人民の文学を生み、またこれから生もうとしている者の本質的な人生と文学との感覚のちがいがあらわれています。人民的な階級性をもった世界観という言葉の実体は、印刷された箇条書きではなくて、わたしたちの心臓の鼓動とともに高鳴っているものであり、わたしたちが生きているとともに生きているものです。職場の若い娘さんが「私はいやよ」という一言の中にこめられているものであり、是非民主的に生きたいという人々の欲望そのものの中にあります。
 一人の文学を愛する労働者が、いつもより本質的に人生の波を感じとる人として、またそれを再現する人として自分を分裂させずにあらゆる場面を生きとおしてゆくということ、そのように機動的な文学性をきたえてゆくということ、これが人民の文学の新しい発展の基礎訓練です。スキーや水泳の選手が、基礎練習として体操を忘れないように。
 これまで新しい人民の文学の発端としてルポルタージュを書くようにということが、文学サークルでもしばしば云われてきています。しかしルポルタージュというものは、もう既に一定の文学様式のジャンルをしめるもので、文学製作のいろいろの条件を必要としているものです。ルポルタージュは非常に構成力を必要とします。情景の描写に相当の描写力を求めます。ルポルタージュがさかんにすすめられているにもかかわらず、案外にこのジャンルが新しい書き手をおくり出さない理由は、こういう風にルポルタージュは案外むずかしいということによります。ルポルタージュが書ければもう短篇が書けるのです。文学サークルの雑誌・文学新聞・アカハタ、いろいろの民主的出版物は、いつも読者との直結をのぞんでいながら通信員を育てあげることについて消極的でした。組合の文化部が壁新聞については馴れてきたけれども、自分たちの通信員をもつことにはまだ無関心です。わたしたちの文学的成長のために、ひとの書いた小説を十冊、二十冊とよんで、巧者な批評をするということと、たった二枚だけれども生活と文学についての文章を読者にのみこめるような具体性で書いてみることとの間には、案外深刻な違いがあるものです。勤労階級があてがわれる文化の消費者であるか、自分たちの文化をつくってゆく者であるかとの大きなちがいは、こうやって話すと面白くもないようなこの小さい一点に対する態度から分れます。
 その人は一生小説を書かないかもしれない。詩は書かないかもしれない。だけれども、いきいきした精神をもって生きていて、批判と主張と希望とをどっさりもっている人として、今日の現実から感じとることがないはずはありません。その考えなり、感情なりを大衆的に表現して職場仲間よりももっと広い階級感情にアッピールし、その反響を自分にも受けとって激励を感じることは、果して意味の小さいことでしょうか。通信を書くという仕事は、文学の基礎体操のようなものです。そこでは、事件そのものがその本質において語られ、その本質が働く人民の生活にどんな影響をもっているかということが発見されていればよいのです。このことは通信を書くという仕事が、広い多面な闘争についてお互いに知り合い励まし合うばかりでなく、正直に通信を書こうとするわたしたち一人一人に、現実を正確に観察して主観的な誇張なしにそれを書いてゆくというリアリズムの大切な訓練を与えます。民主主義者にとって、革命家にとっては現実をそれがあるよりも大きくもなく小さくもなくつかんで、そこから見通しをたててゆくということは、過去のブルジョア政治家、ブルジョア文化人、ファシストのもてない根本的な武器です。もっとも高いこういう文化性は、もっとも高い政治性に通じます。アカハタの読者から集めた批判の欄に、主観的な誇張のない記事をのせてくれという一項目がありました。このことは、日本の人民が三年間の闘いを通じて現実の複雑さに対してリアリスティックな成長を遂げてきたことの証拠です。職場の通信員であった人の中から、特に文学的表現にすぐれた人が生れて、それが作家となってゆくというような階級の歴史の健全さの中から民主的な勤労者作家の出現が期待されます。だから文学サークルが目下小説を書いている人たちだけの中心勢力で指導されていて他のより多くの人はいわゆる文学愛好家の水準にとどまって、心まかせの投書雑誌向きな詩や小品ばかりを書いているという状態は、できるだけ早く発展させられなければならないでしょう。わたしたちは誰も彼もが民主的政治家になるのではありませんし、組合の委員になるのでもありません。一人残らず共産党員になるわけでもありません。けれどもわたしたちは、人民の幸福を守る民主的政治家と政党とを選んでそれに投票します。わたしたちの人民的世論というものがそのように表現されて自然であるということが分っていれば、小説家にならないからといって、階級人としての現実観察とその評価、批判を通信として書くのがおかしいとか、馬鹿らしいとかいうのが妙だということははっきりしていると思います。文学が階級の文化生産物とならなければならないということは、政治の優位性ということについてはもっと具体的に研究されていいのではないでしょうか。つまり文学というものに連関して私たちの感情の中にとかく刺戟されやすいブルジョア的な個人的ヒロイズムや、それに対する個人的な反感などというものをわたしたちは、階級の全線的な関係からみてゆけるように文学感覚そのものにおける政治性をたかめてゆかなければならないということがいえると思います。
 ファシズムとの闘いは、こんにち世界各国で全面的な歴史の課題となっています。第二次大戦の結果は、世界に民主的勢力をより大きくしました。けれどもファシズムはこの地球から消されていません。最後の段階として資本主義が存続しつづけるかぎり、ファシズムは生きています。生活のこまかいこまかい根にまで寄生している封建思想と小市民的な動揺と、それを餌に育つきのこ[#「きのこ」に傍点]のようなファシズムと闘ってゆくために、わたしたちは民主民族戦線という大きい筋を必要に応じてどんなにもこまかく生かしてゆかなければならないと思います。そしてファシズムと闘う文学活動について考える場合、いきなりぱっとジャーナリスティックな敏感さでフランスのレジスタンスの作家たちというような飛躍をするだけでなく、本当に闘う者の腰のすわりで階級的通信活動という形の小さいしかし機能の大きいものにまでほりさげて感覚し、実践してゆくことこそ具体的なファシズムへの抵抗と勝利の道であると信じます。
 わたしたちは生活の間に喜びとはげましのこもったやさしい慰めとを求めています。文学はこれに答えるものとして求められています。美しいものを感じたいわたしたちの気持、やさしさを受けとりたいわたしたちの人間らしさ、そういうものがわたしたち自身の表現をもつことなく、与えあうことがなく、肉体の文学ややくざの世界の物語のどぶの中に流されてしまうとしたら何と悲しいことでしょう。ファシズムの持ち前である生物的な同時に権力的な幻想の世界は、一種のロマンティシズムのようにあらわれて若いひとびとを戦場にかりたててきたことをみてきました。ファシズムとの闘いには、こういうやわらかい人間の心をわたしたちが正しい方向にもりたててゆく文
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