までの期間には、ある発端的な意味があったかもしれません。なぜなら、そういう発言そのものが、戦争にかりたてられた日本の人民がどんなに基本的人権を失っているかということの証拠でありましたから。しかしそれから後、日本における民主主義革命は人民的民主主義へ急速にすすむ歴史的本質をもっていることが明瞭にみんなにわかってから、ブルジョア民主主義の立場に立って確立されていた筈の「自我」の現実の姿はどのようにあらわれたか。非常におもしろい例がでてきました。
 皆さん新聞で御承知のことと思いますが、部落解放運動の長老として有名な代議士の松本治一郎氏が開院式のとき天皇に拝閲することを拒絶して問題になりました。なぜ松本氏が拒絶したかといえば「蟹の横這い」が厭だったというのです。天皇がまっすぐに向っているのに、同じ人間の議員は体を横にして横這い歩きをして出たり入ったりする。自分は人間だから厭だ、人間は元来まっすぐに歩くものなのだから御免蒙るといったのでした。あの当時「横這い」ということはずいぶんわたしたちの印象に残ったと思うのです。ブルジョア文学において最も「自我」を主張し、それについて一番潔癖な、一番完成したといわれている志賀直哉を、松本治一郎と対比してみるとどうでしょう。あんなに自我というものをたいへん潔癖に守ったような人が結構、横這いをしているのです。天皇も人間になったのだから、そして生物学者ということを押し出しているのだから、文化的な雰囲気をもたせなければならないというわけでしょう。この頃は芸術院(これは各専門分野から養老院という辛辣な別名を与えられていますが)の会員と会食したり、安倍能成、志賀直哉そのほかを招いて天皇の前で文化・文学座談会というようなものをやるのだそうです。けれども、その話しかたが横ばいなんだそうです。普通にあいたいで話すんじゃなくて――天皇がみんなから別のところにいて、その下に安倍さんや何か固まって話してね、お互い同士は友達ですから、こういうことはどうなんだろうね、たとえば天皇はこういうときどういう言葉を使われるのだろうね、というようなことをお互いの間でいうと、侍従か何かがそこにいて、天皇に適宜にとりつぎ、またその答えは側のものが答えるんだそうです。だからこれは松本さんが厭だといった「横這い」の会話でしょう。それは天皇という人は、奥さんに額の汗を拭いてもらってほんとうに満悦している写真があったように、その人とすれば悪い人でもないし、不幸にも人間ばなれした偶然の境遇に生きてきた人でしょう。しかし主権者として、わたしたちと同じ人権に立って存在している正常な人格なら、天皇が侵略戦争について責任無しなどということはない筈です。責任なし、ということを宣言されてたとき、彼はたいへん喜んで、よろしくお礼をことづけてくださいといっていました。が、あれはつまり、天皇というものは法律の上でも無能力なものであるということを自分から承認したことであり、どうぞこれからも悪しからずという挨拶です。天皇という地位にうまれた一個の人を無人格な者にするのならば、天皇制なんかはこの点からもない方がいいものです。普通の人間になって生きられるような社会を作ってやらなければ皇太子だって可哀想です。英語ばかり話せるようになったって、大事なことはなんだってアイ・ドント・ノー、アイ・ドント・ノーではね。しかしそういう社会は、天皇制をくいものにして、旧権力を温存させようとしているものには決してつくれません。人民がつくる力をもっているだけです。ブルジョア文学の旧い「自我」の限界は志賀直哉のような文壇的自我が、それほどの横這いを横這いと思わなくなっている、というところに、はっきりあらわれている。天皇制を批判したりするものに娘を嫁にやらないなどと、世間のおやじが酔っぱらった時にあぐらをかいていうような啖呵《たんか》を、文学者としていえるということは日本の過去の社会感覚の中で「自我」がいかに低い内容をもち、いかに封建的であり、隷属的であるかということをはっきり私どもに知らせていると思うのです。
 おくれて、しかも速く進む日本の歴史の中ではブルジョア民主主義と人民的な民主主義と並んで重って或る期間進展してゆくから、人民民主主義を否定しようとするなら(社会党にいたるまでのすべての保守陣営がそうであるように)いや応なく反人民的になり、国際的ファシズムに結ばれなければ、その一環とならなければ、資本主義としての存在が保てないところへ来ています。国際的にそういう風に歴史が前進しました。ですから私どもが新しい民主的な人民生活をつくりつつそのなかで新しい人民的な内容での自我を確立させていくということは、結局勤労階級の推進力が確立しなければできないことなのです。働く人民の生活安定と自由と建設がなければそのうちに育て鍛えられる新しい人民的自己というものの確立はありません。ですから、さっき一番始めに申しましたように安倍源基が市民生活の中へまぎれ込んで来るとか、にせ気違いかなんか知りませんが、東條の頭を叩いて松沢に行っていたファシズムのイデオローグである大川周明が全治したとかいうとき私どもははっきりとファシズムは生きていることを知りそれに対して闘って自分たちの民主的なすべての可能性を守らなければならないのです。これは、わたしたちの義務です。もしわたしたちが基本的人権を主張する権利を認めるなら、その権利を守るためにたたかうということは当然の義務であり、云わば権利そのものの表現です。私ども正直でつつましい人民すべてが世界の平和を愛し、恒久的な平和を守ろうと決心した場合には、ちょうど私どもがいいことをしたいという時と、やりかたが同じだと思います。いい一つのことをするには悪いことと闘っていかなければならないとおり、平和を守る場合には、必ず、平和を乱すあらゆる条件に対して、はっきりとその本質を見きわめ、理性的に聰明につよく闘っていかなければ平和は守れない。
 文学的創作は一つの社会的行動でしょう。書くということは社会的な行動です。書く時に私どもはなんのテーマもなく書くでしょうか。まず第一に自分たちの書きたいと思うテーマをしっかりとらえようとします。われわれの頭のなかにはいろいろの問題があって、くれにさしかかっている今は今年の正月は餅が何枚つけるか、蜜柑が買えるか、ボーナスがいくら貰えるだろうか、貰ったらどう使うか、また靴の新しいのを買わなければならない、いまはいている靴は底がぬけたとかいろいろな考えが頭にあります。そのなかで靴の底が抜けたから新しい靴を買わなければならないというテーマについて書きたいと思うときは、ほかのことは一応整理して、どけなければならない。それから、第二段のこととして私どもがものを書こうとする場合には、自分の未熟さにも抵抗して、全力的にそれとたたかってゆかなきゃならない。表現のむずかしさ、読む人に書こうとしていることがよくわかるように書いてゆくためには、自分のあらゆる貧弱さにも抵抗しなければならない。働く人は時間の少いという条件ともたたかっているのです。そういうさまざまの抵抗とたたかいながらなお且つ新しい文学が生まれようとしているという希望、何かいわずにいられないものが、わが胸に鳴っているという希望によって書いているんです。平和という仕事もその通りです。現代の歴史ではファシズムとの闘いをぬきにしては私たちの基本的人権はもちろん文学をつくってゆくすべての人間的可能のまず第一のところ――生きて判断して、表現してゆく自由が守れない。つまり私たちの命、私たちの人生そのものがついこの間までそうであったように私たちのものでないようになってしまうわけです。今日そのことについて知らない人はないし、そのことを思わない人はなくなりました。それだからこそ、世界に平和擁護運動がおこっているし、日本に「日本文化を守る会」「民主主義擁護同盟」等があり真に文化を守ろうとする人が、民主民族戦線に無関心ではあり得なくなっているのです。
 今日ここに来ていらっしゃる方々は、なんかの形で文学を愛好している方でしょうし、民主的な新しい文学を書こうと思っていらっしゃる方も多いでしょう。そういうわたしたちがファシズムに対して闘い、平和を守り、新しい自分たちの才能をもこめて自分というものがほんとうに社会的に生かされてゆく社会をつくってゆくためには何をしなきゃならないか、ということは、もうくりかえす必要がありません。それははっきりしています。わたしたちはわたしたちの人民としての人生を守り、主張し、うちたてるのです。ファシズムに対する戦いは、すべての組織においてあらゆる方法で具体的に実際的に行われなければならない。労働組合でも人民の政党によってもわたしたちの日常的な行動のすべてにおいて、行われなければいけない。それについてここに一つの新しい提案があるのです。
 文化の社会的基礎は経済問題であり、同時に政治問題であるから、その文学の社会的基盤の向上のために文学を愛好する人はたとえば組合なら組合の活動、政党なら政党の活動に積極的に結びつかなきゃならないということまではこれまでもいわれて来ました。それはもっともだし当然です。だけれども、どういう形で結びついてゆくかというこまかいことになると、皆さんにも煩悶がおありになると思います。もし煩悶がないとしても、組合の仕事などとの間に何かの不一致、何か気持のぴったりしないということなどが、しばしばサークルにいる人たちの間などで問題になっています。民主的な小説を書きたいと思っている、だけれども労働者には時間がない、組合の活動は積極的に働けば非常に時間をとります、だからいま小説を書きたいと思っているんだから当分、組合の仕事は少ししかしないで置こうというような気持。実際そう思うときもあるでしょうが、それは新しい文学を生もうとする人としては間違っています。なぜかといえば、組合の仕事やその他の組織の活動で私どもは新しい社会感覚、それに立つ文学表現を蓄積していくのです。その経験こそいわゆる「才能」を解放する力です。谷崎潤一郎にしろ、永井荷風にしろ、どんなにしたって自分たちの生涯のなかで経験することの出来なかった一つの新しい、ほんとうに民主的な文学の基盤というものが、今日の若い人民的世代のためにひらかれているというのは実にここです。そこにわれわれの人生があり、題材、テーマがあり、私どもの詩と小説がある。ですから組織生活を否定してしまったのでは新しい文学も生きている手足をかっ浚《さら》われて、「民主主義文学」という頭だけで机の前に坐っているのと同じです。だからといって文学の現実の問題は、ふくざつです。二・一までのストライキの時に多くの方が経験しておられることですけれども、全く文学に関心のない組合員と同じようにビラを貼り、メガホンで叫び、かけずり廻って、そして疲れて帰る。それだけでは何となく心がみち足りない。文学が恋しくなる。そして、文学恋いから太宰だの、椎名麟三だのを腹ばいになって読む。その人の現実と読まれる文学の間に何の必然のつながりがあるでしょう。一人の労働者として組合の仕事とふれてゆく文学の間に非常にギャップがある。そういうギャップが現実にあるから舟橋聖一・田村泰次郎がこの不況にトップをきって売れているのです。
 ここにAさんという人があります。Aさんという人は工場に働いています。それで文学好きです。文学を好きだという人は必ずより人間的な要求をもっています。自分たちの人生には金や力で解決しない、尊いものがあるということを感じています。何か求めています。ですから職場の闘争で賃金の値上げをたたかいとったにしろ、その闘争の過程で自分が人民的な組織労働者としての人間的な体験を豊かにしたというような経験のし方をしないと、金がよけいとれても侘びしい、組合の闘争や政治教育が低くて経済主義的な活動にとどまると勤労者であるという階級意識がそこに在っても、やっぱり何かしばしば満たされないものを心に残します。ぼんやりした
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