けにえたる人民に、ファシズム戦争の本質を示そうとする者たちがあることなどはもってのほかである。「一億一心」「滅私奉公」「八紘一宇」のスローガンを、かりにも批判し分析する者は非国民とされ国賊とされ、赤とされた。そして、治安維持法と戦時特別取締法とが、大きい残虐な口をあいて、それらの人々を噛みくだいた。見せしめとして。人々の理性を、恐怖によって沈黙させるために。むかしの領主が、はりつけ[#「はりつけ」に傍点]を行ったとおり。『愛情はふる星の如く』の著者尾崎秀実の死はそのようにして強制された一つの例であった。
 ところで、ここに、わたしたちが今日と明日との問題として深く自分にきいてみなければならない一つの心理がある。それは、今日『愛情はふる星の如く』をベスト・セラーズの一つとして推しているどっさりの読者が、ほんの三年前、日本が行いつつあったファシズムの戦争の本質をはっきりさせ、人民が大量に戦争へ狩り立てられることに対して、いくらかでも人間らしい抗争を示し、世界の反ファシズムの共同線につくべきだとした人々に対して果してどんな感情を抱いていただろう。戦争を野蛮な悲しいことだと思っている人でさえ、非国民という言葉におびやかされ、おそろしい治安維持法をよけようとして「そういう考えをもっている人からは」自分を別のものとした。それはどうしてだっただろう。
 明治以来の日本の支配者が人民に植えつけた戦争観をそっくりそのままもっている大多数の人々は、相変らずそれをさけられない投機的な災難として楽観的にうけとった。弱い日本の資本主義がどんな危険な冒険に着手したかということを人民から覆うために国際的経済政治統計はもちろん、文化の国際的な交流さえ禁じた。左右にめかくしをかけられた人民は、戦争遂行という前方の外を見ようにも見られない状態におかれた。はじめは楽観から赤の理窟と一蹴して、国賊排撃に共感していた人々も、おいおい様子があやしくなって本能的な不安に襲われはじめた。ファシスト権力の狂奔はその時期に入って白熱した。人々の不安を国家存亡の危機という表現に結集させた。ひとことも、軍事的天皇制権力崩壊の危機とはいわなかった。正直な人々は、伝統的な感情にしたがって、国家が危急に瀕しているとき、まだとやかくいっている非国民! 理窟があるならまず協力して勝ってからいうべきであるという心持だった。これは、勤労動員された女学生たちの稚い心にさえ何かのニュアンスで生きていた感情であった。
 だから、一九四五年八月十五日、日本のファシズム権力が無条件降伏しポツダム宣言を受諾したのち、「聖戦」が帝国主義の侵略戦争であったといわれても、すぐそれを納得しかねる感情が大部分の人民の心にひそんでいる。その心持は今日も決して根絶していない。天皇の名において、これほどの犠牲を費した戦争が全部国際悪であり、人民の運命を破壊したものとは、いくら何でも信じきれない思いがある。悪い戦争ということになったのは、敗けた結果の批判ではないだろうか、という考えがある。同時に一方では、これまで満州ばかりを戦場にしていた日本人すべてが、はじめてわが顔をやく焔として近代武器による戦争の惨禍を実感した。そして、戦争のこわさを身にしみている。
 この入りくんだ社会感情のいきさつこそが、今日、わたしたちを渦にまきこんでいる戦争挑発の肥沃な温床である。さもなければ国際裁判の公判廷で、東條英機がどうしてあのように卑劣ないいまわしで今日もなお戦争の責任を否定し、確信ありげにファシズムの宣伝をしたろう。このジェスチュアは東條自身にとって、一層世界の憎悪を集め、検事団の道義的憤怒をそそった。その見えすいた厚かましさを東條英機に可能だと信じさせただけつよいファシズムのかくれた動きが今日の日本の支配権力のかげにある証拠である。軍人としてさえ恥を知らないジェスチュアによって東條の人気を挽回することで、その努力の一歩前進させることを期待したファシズム勢力があることこそ、わたしたちの警戒しなければならない最大の危険である。
 きょうのファシズムは、決して数年前までのようにむき出しに帝国主義の野望をいいあらわさない。日本でさえ、ファシズムは、日本の民主的発展のためという。生産復興のため、平和のため、と形容する。けれども、ここに一人の人があって、真面目に知人と知人との間の親睦を計ろうとするとき、一方の人に、他のものの誹謗をしてきかすだろうか。双方に何か不一致があるときは、具体的にその一致点を研究し、公平に見て、くらべて、一致点を発見して行こうとしないだろうか。一方のより金の力のつよい側に一方の悪口をいったりするのは、おべっかか、お追従として、日本の気質《かたぎ》が下劣と認めている態度である。
 法学博士横田喜三郎氏が、『時論』五月号の評論に詳細に述べておられるとおり、第二次大戦で直接国土に戦禍をうけなかった国はアメリカだけである。アメリカは第一次大戦においても同じ幸運を保った。第二次大戦では軍人だけの損失が一五〇〇万人とされている。その内訳は、反ファシズム戦争で甚大な消耗をしたソヴェトが七五〇万人、つまり半分の犠牲を出した。ドイツが第二位で二五〇万人。中国が二二〇万人。日本が中日事変を加えて一五〇万人。ところがアメリカは四九万人を死なしただけですんだ。アメリカの一年間の交通事故で死ぬ人よりも少い損傷ですんだ。イギリスは自治領を加えて四五万人。国土が安全であったアメリカは、軍人でない生命の犠牲は数においてみなかった。ナチの虐殺にあったソヴェト、日本の虐殺をうけた中国、ドイツ、日本などは、その点で比べられない悲惨を経た。
 横田喜三郎博士は、もっと興味のある事実をあげておられる。それは資源の問題である。アメリカのすぐ利用できる資源は、工業生産において世界資源の八五パーセント。鋼鉄生産においても同じ。ソヴェトは一五パーセントである。石炭ではアメリカ八四パーセント。ソヴェト一六パーセント。石油アメリカ九〇パーセント、ソヴェト一〇パーセント。電力アメリカ八九パーセントに対して一一パーセントである。輸送力の上にもひらきは小さくない。鉄道一五パーセント。大道路世界の二パーセント。動力による輸送二パーセント。食糧では、人口と耕地面積比率においてソヴェトが安定しているのは、自然であろう。近代戦争の決定的要素は鋼鉄、石油、輸送力である。この数字を見て、日本のわたしたちは、ソヴェトが戦争をけしかけているというファシストの宣伝が事実上の根拠をもっていないことを知るのである。
 横田氏は、またソヴェトの国家予算の内容を検討していられる。これも面白い。ソヴェト一九四七年度国家予算の総支出は三六一二億ルーブルで、そのうち軍事費は一八パーセントの六八五億ルーブルであった。これを一九四六年度に軍事費が国家予算総支出に対して四二パーセントに当っていたのに比べると、比率において半分より減っている。減った軍事費が、社会文化費にまわされて二〇五億ルーブルふえた。去る一月三十日に発表された一九四八年度予算でも軍事費は総支出の一七パーセント。昨年より一パーセント減って、金額で二五億ルーブル減である。そして社会文化費は三三一億ルーブル増している。この一九四八年度のソヴェト国家予算が発表されたときAP通信は、「ソヴェトの新予算は、世界の平和にとって、これまでソヴェトの首脳部の声明の全部を合わせたものよりも、さらにいっそう重要な意義がある」と説明した。
 今の世界に列強は二つしかない、とアメリカの人自身によって云われている。アメリカは、どういう国柄であろうか。この面にふれても横田博士は書いていられる。十八世紀の末に、清教徒が精神の自由を求めて新世界へ移住してきた封建的伝統を少くもった新興国である。移民した人々に対する英国の徴税とその君主支配に反対して独立戦争をおこして、勝利した。人類の理想、人道主義世界の擁護、平和の精神はアメリカ伝統の精神である。それは、日本が侵略開始した満州事変の時から南方侵略までの十数年間、アメリカが日本の侵略行動に強く非難を向けてきたのを見てもわかる。東條を頭目とする日本の戦犯者の国際裁判の最終日に、キーナン検事が、「正義を伴わない文明は背理である」といった言葉のうちには、人類の正義への評価があった。第一次大戦後、平和のための国際連盟《リーグ・オヴ・ネイションズ》にアメリカが、最大の能力をもちながら加入しなかったことは、当時の大統領ウィルソンの苦衷ばかりではなかった。世界の資本主義経済の網目のなかで、アメリカの富が次第にその国にとって持ちおもりのするものとなりつつある程度につれて、伝統的人道主義の理想は国際的表現にニュアンスを加えてきている。けれども、きょう真面目なアメリカの人々が、第三次の戦争を希望しているとは思えようもない。パール・バックは平和の確保のためにあのように熱心だし、「怒りの葡萄」「真珠」などの作品で世界的なアメリカの作家スタインベックは最近ソヴェトを訪問して「鉄のカーテン」の彼方に温い血をもって勤労し建設し笑い悲しんでいる同じ人間の生活していることを発表した。その記事は日本の新聞にも出た。アインシュタインは何と云っているだろう。原子力の人類平和的利用のためにアメリカの科学者を中心として世界の科学者が努力している。ユネスコの精神は何であろうか。資本家であり、社会主義者でさえないウォーレスが、第三党をつくって、世界平和のための可能を増大することに精力を傾け、それを支持する勢力が労働組合内に拡大しているのは何故だろう。これらの事実はアメリカの内部につよい平和への欲求があることを示している。第三者として考えてみてもそれはそうだと思う。ニューヨークのあの摩天楼の櫛比《しっぴ》した上に巨大な破壊力がおちかかる時の光景を想像すれば、どんな蒙昧な市民も、それが、ノア洪水より、惨《みじめ》な潰滅の姿であることを理解するだろう。もし、アメリカの市民感情に戦争挑発にのせられる何かの可能があるとすれば、それは自身の近代的戦力の影を、逆にわが身の上におとしての戦慄であろう。わたしたちは、よく知っていなければならない。アメリカのフレンド派のクリスト教徒三万人は、第二次大戦に、良心的参戦拒否をした。そして負傷者その他の救護に著しい貢献をした。アメリカの反ファシスト同盟はついこの間フランスからキュリー夫人などをよんで会議した。自由市民同盟、人権擁護同盟その他の平和的組織がいくらかあって活動している。アメリカが総体的に戦争を欲しているといえば、それはアメリカ全人民への限りない侮辱である。アメリカのもっている困難は第二次大戦で拡張されすぎた生産力の合理的はけくちの発見である。自由競争で、きょうまで拡大してきたアメリカが、世界のどの資本主義国より広告心理学の研究で一頭地をぬいていることは、世界のすべての学者が知っている。アメリカの商業ポスター、広告ビラの勘のよさ、手ぎれいさ。気のきき工合。会社と会社が互にきそうその広告、宣伝術に対して、購買者たる市民の側の選択も、発達している。主婦は自分の生活のほんとの必要にたって、一つの罐づめでも選ぶ。そういう選択、判断がなかったらアメリカの貯蔵食品の今日の発達と品質の向上はあり得なかっただろう。
 その科学的に分析され綜合的に研究され発達しつくしたあらゆる部門の広告が、日本のように今でさえまだ半封建的な幼稚な資本主義国にもちこまれたとき、それは日本の内にどんな反応をよびおこすだろう。若い娘の服装にその反応の特色があらわれた。黒い髪に対して真赤な爪はどんな色彩効果かということは考えられていず、胴《ボデー》長に、ロマネスクのモードの滑稽なあわれさが自覚されていない。商店の広告はアメリカ広告の植民地的真似をしている。自主的な批判力のまだつよめられていない日本の社会の心理に、半封建の精神の特徴である権力追従を恥じない事大主義が横行している。国際的という名をかりて。民主的という名をかりて。そして世界平和という名をかりて。そして、この風潮は事大
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