平和への荷役
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)公方《くぼう》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)婦人作家大塚|楠緒《なお》子の

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――船が嵐にあって沈まないためには積荷が均衡をもって整理されていることが必要である。――
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 わたしたちのまわりに、また戦争に対する恐怖が渦まきはじめた。一部には、その恐怖が病的にさえ高まってゆきつつある。それだのに、どうしてその戦争に対する恐怖の激しさに相当するだけの、きっぱりした戦争拒否の発言と平和の要望が統一された世論としてあらわれて来ないのだろう。兵火におびえる昔の百姓土民のように、あわれにこそこそと疎開小包をつくるよりさきに、わたしたちは落付いて観察し判断するべきいくつかの重大なことを持っていると思う。わたしたち自身を恐慌から救うために――
 日本人の心には、戦争を一つの「災難」のように思う習慣がないだろうか。しかも、どこかに投機的な期待をそそられる気分も動く災難のように。
 明治からこんどの戦争までに日本の政府は日清、日露、第一次世界大戦、そのほか三つ以上の戦争を行った。日清戦争、日露戦争は国民全体にとって記憶のふかい戦争だとされているが、それにしても決して当時の日本のすべての人民の意見による賛成決定で行われたことではなかった。明治、大正時代の日本資本主義の興隆期に向っていた権力者たちが、中国と当時のロシアに対して他の列強資本主義が抱いていた利害関係との一致において敢行したことだった。だから、中国に対する日本の後進国帝国主義の侵略の結果は、その潮のさしひきの間に三国干渉というような微妙な表現で、当時の各列強間に中国の部分的植民地化のきっかけをもたらした。日露戦争のとき、旅順口の攻撃は主として英国の海軍によって行われたものだ、と信じている英国人が少くなかったことは、小説家水上瀧太郎の「倫敦の宿」という作品にかかれている。日本の人民は自分たちの軍事的権力の威力だけで勝利したと信じこまされていた。反対のことが、外国の通念の中に植えこまれている。ここにも見落すことの出来ない現実のひとこまがある。
 日本の人民は、半封建的な当時の社会輿論のなかで、政府が宣伝する開戦理由をそのままのみこんでいたばかりだった。政府の大本営発表を信じたばかりだった。そして、政府が表明した勝利の終曲と、その勝利によってもたらされたと教えこまれた日本の世界一等国への参加をよろこんだだけであった。これら三つの戦争は、そのときどきの英雄大将を生みつつ一方では日本の街頭に廃兵の薬売りの姿を現出し、一将功なって万骨枯る、の思いを与えた。けれどもそれらの人々の犠牲で戦争に勝ったおかげで[#「戦争に勝ったおかげで」に傍点]日本は一等国になれた、という感情が一般のこころもちであった。封建的な日本の気持では、世界の座の順位で一等国になったということを、素朴にいわゆる国民の誇りと感じた。黒船が来て、井伊直弼が暗殺されて、開港した後進国の日本が、ヨーロッパ資本主義列強に伍してアジアで唯一の一等国になったということは、どんなに複雑な明日の日本の立場を暗示するものか、ということは一般の感情には感じられなかった。
 明治以来の日本の心に伝統となった戦争に勝ったおかげ[#「戦争に勝ったおかげ」に傍点]という底流れを、こまかに触れてみれば、そこには日本の人民のひとくちに咎めるにはいじらしい人間的権利への憧れがあった。福沢諭吉が活躍した明治の開化期の、人の上に人のあることなし、人の下に人のあることなしの理想は、武士階級と町人資本との結合した太政官政府のひどい藩閥政治から、ひきつづく官僚の横暴、男尊女卑の現実などで一つ一つと破産させられた。万機公論に決すべし、という五ヵ条の誓文は、自由党という政党を弾圧し、言論取しまりの警察法をつくって、そのあとからあらわれた。明治開化で士族平民の別なく人おのおのその志をのぶべし、という理想は実現するにあまり遠かった。
 けれども、徳川の封建的権力がくずれかかった幕末に、日本中に横行した悪浪人の暴状と、相互的な暗殺、放火、略奪に疲れていた町人、百姓、即ちおとなしい人民階級は、ともかく全国的に統一した政権の確立したことに安心した。士族の町人、百姓に対する斬りすてごめんのなくなったことを徳とした。地頭・庄屋に苦しめられた人民は、日本に法律ができ、それによって裁判ができるということに一歩の合理性を認めた。武士階級の若い世代は「手討ち」のなくなったことをよろこんだ。飛脚でない郵便ができたことは珍しかった。それらすべてのことを出来したのは誰の力であるとその当時の人民は教えられたろう。それはそれまで人民の主人であった公方《くぼう》と藩主とをはっきり臣下とよぶ天皇であり、その制度であると示された。一天万乗の君の観念はつくられ、天皇の特権を擁護するために全力をつくした旧憲法が人民階層のどんな詮索もうけずに発布された。当時の笑い草に、憲法発布ときいた江戸っ子が、何でエ絹布のはっぴだって、笑わせるねえ、はっぴは木綿にきまったもんだ! と啖呵をきった笑話がある。
 当時の人民層がおもっていた社会と政治感覚のこんな素朴さ。しかし、官員万能であり、時を得た人、成り上がりが幅をきかしても一般には思うにまかせない貧富の差、生活向上をねがう人間の権利に対する機会の不平等などは、平等という言葉が感情に植えられただけに、つよく意識された。国内政治の現実にその胸の思いを実現してゆく人民的な自由を持たず、そのような教育がどこにもなかった時代、人々はめいめいの生涯のきまりきった小ささに飽き飽きした思いを、せめては日本が戦争に勝つという景気よい機会に放散させるのが一つの心ゆかせであった。国内の人民生活の不如意、逼迫を解決するためにも、せまい国土をもった日本は外へひろがらなければならないと教えられた。そして小さい日本が大国と戦争して勝ち、つよくて金のある列強と対等のつき合いをし、応分の植民地分割にあずかるということに国内の現実からは消えた、四民平等の夢をつないだのであった。
 事実、戦争がはじめられたとき、日本の人民は、はじめて権力にとって無視されないものとなった。アジアにおける資本主義国として、西欧資本主義の利益探求の方向に同調し、その範囲で日本の資本主義を強化してゆくために、兵としての人民は重要な軍需消耗品である。自身の繁殖力によって消耗を自動的にカバーしてゆく消耗品である。日ごろは人民のつつましい日暮しに触れるところのない天皇をはじめとする雲上人、大臣、大将、代議士たちなどが、戦争となると、いつも離れて生活しているだけに、一層効果的な好奇心・感動をもって人民にこまごまとふれはじめた。「一匹の軍馬よりもやすい兵卒の命」は雀躍して皇国に殉じることを名誉と感じて疑わないように。妻子父母は、国のために、不幸を名誉としてよろこばなければならない。宮様と同じ隊であった息子が、前線で戦死したことを息子の余栄として、皇后の巻かれた繃帯で、わが良人、わが子のもがれた手足がくるまれ、目しいた眼が包まれることで、日本の女性の苦悩と疑惑とが感涙によって洗い流されなければならなかった。恩賜の義足、恩賜の義手、何という惨酷な、矛盾錯倒した表現であろう。民草、または蒼生と、ひとりでに地面から生え、ひとりでに枯れてゆくもののような言葉でよばれた日本の幾千万の人民が、その命に何かの重大な価値を自覚する機会は、戦争という形でしか与えられなかった。
 日本人は女でさえ、軍国的であり好戦的であるという前に、わたしたち今日の日本の心は、これまで日本を支配した権力と人民との関係の委細をことこまかに理解しなければならない。そして、以上のような人民の社会生活とその感情の現実を見出したとき、わたしたちは、これまで日本を絶対的な力で支配していた半封建的な天皇制というもののむごさを、あらためて痛感する。それは、天皇そのひとの人間性さえも畸型にしたシステムであった。天皇という偶然の地位に生れ合わせた一個の人間を不幸にするシステムであり、しかもその人をその特殊地位に封鎖して、その人にその身の不幸を自覚させず、人間ばなれした日常から脱出しようと焦慮することさえ知らせない一つのシステムであった。知らしむべからず、よらしむべしという徳川幕府の政治的金言は、天皇制運営者たちによって、人民にあてはめられて来たばかりでなく天皇そのひとの生涯に適用された。天皇一族の経済的なよりどころは資本家、地主としての日本の資本主義の上にある。その帝国主義の段階の侵略性で、戦争をくりかえす。しかし、天皇は国民のためと教育され、人民は天皇のためと教育されて来たのであった。
 最近の十数年間、特に太平洋戦争がはじまってからの五年間にわたしたちの経験した辛酸の内容をつまびらかに観察すれば、最後のあがきにおいて以上の諸関係がどんな程度にまで亢進し、ついに破局したか、明瞭である。
 日本の社会心理の最底辺にとって、戦争が投機的な災難、勝てば得する式にうけとられていることが、日本の資本主義権力にとって、どんなに便利であったかということは、日本の権力が明治二十八年以来行ったそれぞれの戦争にあたって、すべての戦争反対、平和運動を禁止し、処罰してきたことでよくわかる。明治初期の婦人作家大塚|楠緒《なお》子の詩「お百度詣」は、決して太平洋戦争の日、お百度詣りをしていた母や妻たちに示されなかった。与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」と戦争の野蛮に抗議した詩は、文学史の上にさえ全文を現わさなかった。日露戦争当時、晶子がこの作品を発表したことを憤って大町桂月が大抗議したことがあった。「変目伝」の作者広津柳浪は、当時の文学者としては西欧風の心理主義作家であったが、ある作品で売国奴・非国民と罵られてから、そういう日本の文化感覚に対して自分の書く文学は無いと、以来、絶筆してしまった。「外科室」をかいた鏡花がお化けの世界へ逃避してしまった動機にも日本の軍国主義文化の圧力があった。
 一つの戦争ごとに日本の社会全体が国際的接触をまし、日本の民草も、自分たちが資本主義をこやすかいば[#「かいば」に傍点]としての蒼生ではなくて、人民であり、生産者であり、その勤労からつむぎ出される生産の利潤で支配権力を養っている勤労階級の男女であるという事実を知ってきたことは、やむを得ないことであった。日本の資本が地球の果から果へ市場をあさり、スウィスの村道に日本製の自転車を走らせるようにしたそのことと切りはなせない現象であった。そして、そういう日本資本のひろがりを国威発揚と表現する方が便宜だった。その方が人民の伝統的な国びいきの感情を刺戟し、満足させ、世界のどの文明国よりもやすい労働賃銀で一台の自転車にしろ生産して、より多い利潤率を保つことが出来やすかったから。資本主義の権力がいつも左翼を嫌悪する原因がここにある。いわゆる労働問題をおこしたり、日本の労働者の賃銀は世界水準から半奴隷的賃銀とされていること、婦人の労働がさらにその半分の賃銀しか得ていないからこそ、明治以来日本の繊維産業は世界市場で資本家のために利潤をあげてきているというような事実をあからさまに語り、現代の社会機構の見とり図を人民に与える社会主義者は、「赤」としてとりしまった。「赤」は支配者にとって必要とするより速く、広汎に具体的に人民層の社会的位置づけと勤労階級の実力の意味と展望とを目ざまさした。そして資本主義が発展すればするほど一方では勤労階級の自然的な社会自覚と国際連帯のテムポは早まってくることはさけがたい。だから、権力はいよいよ反資本主義的な社会要素を嫌悪する。まして、資本主義がファシズムの段階に入り、全く人民の犠牲そのものによって戦争を強行しようとするとき、まさに大量的に屠《ほふ》られようとする生
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