示している。第三者として考えてみてもそれはそうだと思う。ニューヨークのあの摩天楼の櫛比《しっぴ》した上に巨大な破壊力がおちかかる時の光景を想像すれば、どんな蒙昧な市民も、それが、ノア洪水より、惨《みじめ》な潰滅の姿であることを理解するだろう。もし、アメリカの市民感情に戦争挑発にのせられる何かの可能があるとすれば、それは自身の近代的戦力の影を、逆にわが身の上におとしての戦慄であろう。わたしたちは、よく知っていなければならない。アメリカのフレンド派のクリスト教徒三万人は、第二次大戦に、良心的参戦拒否をした。そして負傷者その他の救護に著しい貢献をした。アメリカの反ファシスト同盟はついこの間フランスからキュリー夫人などをよんで会議した。自由市民同盟、人権擁護同盟その他の平和的組織がいくらかあって活動している。アメリカが総体的に戦争を欲しているといえば、それはアメリカ全人民への限りない侮辱である。アメリカのもっている困難は第二次大戦で拡張されすぎた生産力の合理的はけくちの発見である。自由競争で、きょうまで拡大してきたアメリカが、世界のどの資本主義国より広告心理学の研究で一頭地をぬいていることは、世界のすべての学者が知っている。アメリカの商業ポスター、広告ビラの勘のよさ、手ぎれいさ。気のきき工合。会社と会社が互にきそうその広告、宣伝術に対して、購買者たる市民の側の選択も、発達している。主婦は自分の生活のほんとの必要にたって、一つの罐づめでも選ぶ。そういう選択、判断がなかったらアメリカの貯蔵食品の今日の発達と品質の向上はあり得なかっただろう。
 その科学的に分析され綜合的に研究され発達しつくしたあらゆる部門の広告が、日本のように今でさえまだ半封建的な幼稚な資本主義国にもちこまれたとき、それは日本の内にどんな反応をよびおこすだろう。若い娘の服装にその反応の特色があらわれた。黒い髪に対して真赤な爪はどんな色彩効果かということは考えられていず、胴《ボデー》長に、ロマネスクのモードの滑稽なあわれさが自覚されていない。商店の広告はアメリカ広告の植民地的真似をしている。自主的な批判力のまだつよめられていない日本の社会の心理に、半封建の精神の特徴である権力追従を恥じない事大主義が横行している。国際的という名をかりて。民主的という名をかりて。そして世界平和という名をかりて。そして、この風潮は事大
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